私は、真実それ自体に価値があると信じている。真実を知ることで間違ったことをせずに済むこともあれば、後悔せずに済むこともある。そのような「役に立つ」価値があることは無論だが、私が言いたいのは、真実というものに、それが真実であるというだけで、一定の価値があると私が信じているということだ。病名や予後の告知に対する私の態度や、このブログを書くに至った私の気持ちは、すべてこの真実の価値を信じることにその根がある。

だが、その真実というのは絶対的な真実ではない。私は科学の側の人間なので、私が言う真実とは科学的な(あるいは少なくともそう思える)真実だ。科学的な真実とは、反証可能なものである。ポパーが言うように、神など絶対的なものは科学的ではない。だから、宗教家の説く真理や、歴史修正主義者の好む「真実」とは違い、私にとっての真実は「知る限りでの」真実、「当面の」真実である。私が現時点で真実であると思っていることでも、将来、(光が波と粒子の両方の性質を持っていることが明らかになったように)それを覆す事実が発見されるかもしれないし、(相対性理論によってニュートン力学が近似にすぎないことが明らかにされたように)それが不正確だったことが示されるかもしれない。

私がこのブログで真実と思われることを書くとき、それは絶対的で揺るぎないものではない。人によっては、そのような不確かな考えを公開することに否定的な意見を持つだろう。ある時点で公開した考えを、その後に新しい事実が見つかったからといって撤回することに対し、「変節」や「転向」という言葉を使って評価する人がいる。だが、科学というものはそうのような宿命を持ったものなのだ。大地が平面であると信じていた時代に築き上げた知識の体系は、実は大地は地球という球体であると知ることによって崩れ去ったのだが、過去の個々の知識は地球の形とは無縁に生き延びている。ニュートン力学は宇宙空間での計算には役立たないが、我々の日常生活では立派に役を果たしている。現時点での真実にはそれなりの意味と役割があり、それらは将来消滅してしまうものではない。

私はHPVワクチン(子宮頸がんワクチン)についても発言しているが、私が真実だと考えることも、将来覆されるかも知れないと考えながら発言している。だが、現時点で明らかになっていること(つまり科学的に真実だと判断されること)、そしてそれを伝えることには一定の意味と意義があると考えている。