(承前)
批評の詳細をここで引用しても始まらないと思う。興味のある方は公開された原文(http://www.honyaku-tsushin.net/bn/200212.pdf)を参照していただきたい。ここでは、山岡の主張を中心に考えていきたい。だがそのためにはやはり例を挙げねばならない。

第1編第2章の原題は「Of the Principle which Gives Occasion to the Division of Labour」である。「the Division of Labour」は「分業」という訳が定着している。山岡が問題とするのは「Principle」だ。すべての既訳書が「原理」と訳しているが、山岡は「分業を生む原理について」では章の意味に合わないと指摘する。

本文に書かれているのは、動物と人間の違い、とくに犬と人間の違いなのだから。

そこで山岡は「分業の起源」を最善の訳として挙げている。私はこの本を読んだことがないので、Amazonの「試し読み」で少し読んでみた。たしかに冒頭は犬の話だが、その後には人間の話が続いていた(「試し読み」なので、一部のページしか読むことができない)。だが、「原理」は変だろうという意見には賛成だ。私なら「なぜ分業が生まれるのか」と訳すが。

さらに、よく引用されるという次の文についての議論がつづく。

It is not from the benevolence of the butcher, the brewer, or the baker, that we expect our dinner, but from their regard to their own interest.

この文は、例えば次のように訳されている(一部の訳を引用する)。

水田訳:われわれが食事を期待するのは、肉屋や酒屋やパン屋の慈悲心からではなく、彼ら自身の利害にたいする配慮からである。
竹内訳:吾々が食事をするのは、肉屋や酒屋やパン屋の恩恵によるのではなく、彼ら自ら自分の利益をはかるがためである。

この他にも2つの訳が紹介されているが、山岡は次のように断じる。

既訳のいずれかが引用されていたとしよう。これで意味が分かるだろうか。論理が理解できるだろうか。正直にいって分からない。分からないどころか、支離滅裂という印象をもちかねない。

私は訳文を読むときに無意識のうちに元の英文を想像しながら読んでいる。だから山岡のような違和感を持ちにくい。これは逆に言えば翻訳家として大きな欠点になるだろう。たしかに英文を想像しなければ、「慈悲心」や「恩恵」が出てくるとたしかに混乱するかもしれない。

言いたいことは何となく分かるが、いかにも稚拙で、非論理的な文だと思える。[中略]
[訳者らは]おそらく、この文章が非論理的だというと、原文にそう書いてあると指摘するだろう。たしかに原文をみると、そして学校で教えられる英文和訳の原則に基づいてこの原文を和訳すると、水田訳や大河内訳のようになる。

「英文和訳の観点からは完璧に近いが、非論理的」なのだ。「非論理的なのは原著者なのか、訳者なのか」と問われれば訳者であるのは決まっている。訳者がどうしてそのような文を書くのかと言えば、原著を理解していないか、正しく理解したことを論理的な日本語で書けないかのいずれかだ。翻訳者がいずれも経済学者であることを考えれば、「書けないから」というのが結論になる。
(この項さらにつづく)