村田久行:編著『記述現象学を学ぶ — 体験の意味を解明する 質的研究方法論』(川島書店)を読了した。表紙に「現象学看護」との記載があるように、看護をテーマとした本だ。村田は元ノートルダム女子大学教授で、対人援助論、スピリチュアルケアなどを専門領域とする哲学者である。現在はNPO法人対人援助・スピリチュアルケア研究会を主宰している。

この本の根底にある考え方は、フッサールの『百科草稿』からの引用で示されている。

われわれが対象と直接関係を持つのは(経験、思惟、意欲、価値づけなどの)諸体験においてであるが、われわれはそれらすべての諸体験に視線を転じて、体験そのものを対象とすることができる。そうした場合に明らかになるのは、われわれが何らかの関係をもつものはすべて、さまざまな体験の仕方の中でのみ、自らわれわれに顕現するということである。それゆえそれらの体験は現象と呼ばれるのである。体験に視線を転じて、体験を純粋に体験そのものとして経験し規定すること、これが現象学的見方である。(10ページ、他多数)

この本は4人の看護師が分担執筆した症例検討が大きな部分を占めるが、各人がこの文に対する考察を寄せている。そこでは、この文が難しいという意見が多かったが、それは訳文のせいではないかと考えてしまう。ドイツ語は抽象名詞や複合名詞が多い。また再帰代名詞という特殊な代名詞がある。そのため、それをそのまま日本語に訳すと難しい日本語になってしまう。上の訳文でも「自らわれわれに顕現する」という部分は、「見えてくる」程度のごく普通の言葉なのではないのだろうか。翻訳文を読むとき、私たちは翻訳者の解釈を読まされている。翻訳者の解釈が整理されていないと、私たちはその整理されていない思考を読まされるのだ。

「体験」を考えるとき、私たちは体験の内容や体験の対象といったものを考えることが多い。たとえば悲しい体験をしたとき、私たちはその悲しさや悲しさを与えたものに考えを向ける。しかし、私たちの「体験」は、けっして単に外から与えられたものではなく、私たちの内部の意識と外部の環境との相互作用の中で生まれたものなのだ。したがって、「体験」そのものを詳細に分析すると、私たちの考え、心のあり方といったものが明らかになり、そのときに初めて、その「体験」を与えた「私たちの外にあるもの」の意味や私たちとの関わりが見えてくる。体験する主体の分析なしに体験を与えるものだけを分析しても、本当の分析にはならない。おそらくフッサールが言いたいのはそのようなことだろう。