この本で中心となっている課題のひとつが「表現の自由」である。彼は、表現の自由とは何の規制もなしに好きなことが表現できることではないとする。新聞、雑誌、テレビ、インターネットなどを考えた場合、殺人の勧誘や違法薬物の取引、児童ポルノといった、社会的に規制が妥当とされているコンテンツに対する規制はもちろん必要だろうが、彼は、そもそもメディア会社が財産法などの法規によって守られているのだから、すでに表現の自由を担う媒体そのものが国家による規制に準じて存在しているのであり、全く規制のないメディアというのはあり得ないとしている。

彼は「まともに機能する表現の自由のシステムは、2つの特徴的な要件を満たす必要がある」としている。

〝第一に〟、人は自分では選ぶつもりのなかった情報にさらされなければならない。計画になかった予期せぬ出会いは民主主義そのものの核心である。このような出会いには、人が求めていないし、ことによるとかなり腹立たしい — それでも、彼らの生活を根本から変えるかもしれない — 話題や見解が含まれていることが多い。このような出会いは、似た考えを持つ者同士でのみ言葉を交わすような状況から予測される断片化、分極化、および過激思想から身を守るために重要だ。いずれにせよ真実が重要になる。(12ページから13ページ)

これは彼が提案するセレンディピティのアーキテクチャそのものだ。彼は「人々が考えの似た人ばかりの共同体に自分を振り分けるとしたら、彼らの自由は危険にさらされる。彼らは自分で設計した監獄に暮らしているのだ(19ページ)」とも述べている(「自分を振り分ける」という訳には違和感があるが、深くは追求しない)。インターネット上のサービスは無料で受けられるものが多い。だがそれはサービスの対価として自分という商品を売っているからだと彼は警告する。「情報の繭」に閉じこもる人たちが暮らすのは「監獄」ではなく「畜舎」かもしれない。

〝第二に〟、市民の多くもしくは大半は幅広い共通経験を持つべきである。共有される経験がなければ、異質な人々が混じり合う社会では社会問題に取り組むのはもっと大変になるだろう。人々は互いに理解し合うことさえ難しいと気づくかもしれない。共通経験は、とくにソーシャルメディアによって可能になる経験も含めて、社会をつなぐ一種の接着剤となる。(13ページ)

この共通経験として彼は、国民の祝日、オリンピックやワールドカップ、映画『スター・ウォーズ』などを挙げている。『スター・ウォーズ』を挙げることろは、いかにも私と同年代の米国人だ。