この本の巻末には慶應義塾大学法科大学院の教授である山本龍彦の「解説」が付いているが、サンスティーンの主張を非常にうまくまとめてある。解説は4節に分かれ、最後の第4節は「日本における受容可能性」である。この最終節のタイトルからもわかるように、この本の主張は米国社会を念頭に置いて書かれている。展開される議論は、インターネットやSNS上の現象が中心で、世界に共通する問題を取り上げているが、議論を進める上での中心は合衆国憲法である。一般論として読めないこともなく、また、法学者が読めば非常に参考になるのだろうが、合衆国憲法修正第1条すら知らない私のような素人にとっては少しもったいない本だった。

山本は解説第4節で次のように述べている。

日本では、個人が政治的主体(「市民」)として「自由」を公共的に行使するという憲法文化は根付いていない可能性がある。一般には、表現の自由や知る自由は、好きなことを言い、自らの好む情報を受け取る自由として、私的に、あるいは — サンスティーンの言葉を借りれば — 「消費者」的に捉えられてきたところがある。私の経験上も、学際的な場や講演会場等で、「『フィルターバブル』や『情報の繭』は憲法上問題があるかもしれません」などと発言すると、「自分が好き好んでバブルや繭に包み込まれているのだから、別にいいじゃないですか」と反論されることが多い。(364ページ)

念のため付け加えておくと、「フィルターバブル」も「情報の繭」も各個人に対しその人に限定された情報しか届かない様子を表す。「フィルターバブル」ではフィルターで濾過された情報のみが届くという受け身な感じがあり、「情報の繭」では自分が閉じこもるという積極的な感じがある。

サンスティーンが取り上げている社会は共和制だ。教科書的に言えば、日本は民主主義国家ではあるが君主制だ。しかし冒頭にも述べたように、サンスティーンが問題としているのは今日のデジタルコミュニケーション社会が抱えている問題であり、広く世界中に当てはまるのではないかと思う。各論については明日以降に書いていきたい。