「理解(納得)」の項目では、理解とは何を意味し、どのようにして実現されるかが説明されている。

「理解」が成立するためには、それが既存の何らかの知識の枠組みに「当てはまる」必要があります。しかし、「当てはまるべき知識の枠組み」とは何でしょうか。認知科学ではそれを広く「スキーマ」と呼んでいます。(118ページ)

このスキーマの多くは持って生まれたものだと考えられている。

最近の研究では、赤ちゃんが言語を獲得していくのは、そもそも言語というものがどういうたぐいのものなのか、どんな風に構成されるものかについてのある種の「制約」が生まれながらにして備わっていることが分かっています。また、私たちをとりまく環境のありよう(存在論的制約)も、かなりの部分が生得的に備わっているとされています。(119ページ、原文のまま)

この「制約」はチャンギージーが述べた「harness」と重なる部分があるものだろう。記事のこの部分の注として挙げられている参考文献は2000年に出版されたものであり、この教科書自体も2010年に出版されたものであるのに対し、チャンギージーの『The Vision Revolution』は2010年の出版(邦訳『ヒトの目、驚異の進化』は2012年刊)、『Harnessed』は2011年の出版(邦訳『〈脳と文明〉の暗号』は2013年刊)だから、著者の述べる「制約」はチャンギージーの研究成果を反映していない可能性が高い。

チャンギージーの説に従うなら、この「制約」はすでに備わっている機能を新しい用途に使おうとするための制約である。つまり、言語が生まれた際に、ヒトが言語機能を担う器官(あるいは脳の仕組み)を発達させたのであれば、言語に関する制約は少なかったかもしれない。ところが、ヒトはすでにある仕組みを使って新しい機能に対応させようとした。チャンギージーによれば、自然界でものがぶつかったり擦れたりした際に出る音を知覚し解釈する機能を、言語の聴取と解釈に「使い回した」(リサイクリングした)のだ。このニューロン・リサイクリング仮説はStanislas Dehaene(この姓をドゥアンヌと読むのかデハーネと読むのかについては以前ブログで取り上げた)が2007年に提唱したものだ(https://en.wikipedia.org/wiki/Neuronal_recycling_hypothesis)。

チャンギージーの制約は文字の形と言語音に関するものだが、文法に関しても同様の議論が成り立つことが推測される。言葉は私たちの動作や、知覚される自然現象をもとに構成されているに違いない。ただし文法は言語によって大きく異なり、単語の概念も異なれば、文の概念も異なる。すべての言語を網羅できるような汎用的な文法概念や文法理論が構築されれば、言葉の発生についてもっと多くのことを知ることができるだろう。