著者はこの本で、各文明間で発達の形に差が生じ、最終的に征服・被征服の関係になった原因を探っている。だが、その原因が推測できたからといって、それが征服を正当化するものではないことをこの本の冒頭で述べ、読者の注意を喚起している。

もし、一つの民族がどのような経路をたどって他民族を支配するようになったかの説明ができたら、そのこと自体が、一民族による他民族の支配を正当化することにつながるのではないか。一つの民族による他民族の支配が不可避であったと結論づけ、今日の世界の状況を変革しようとするのは無駄な努力だと主張することになるのではないか—。この種の危惧は、原因の説明と、結果の正当化や是認とを混同する典型的な誤解にもとづいたものである。何かの経緯を解明することは、その結果得られた知識をどう役立てるかとはまったく別の問題である。(上29ページ「プロローグ」)

著者は、当然のことながら、「産業化された社会が狩猟採取の社会よりも優れているとは考えていない(上31ページ)」。さらに彼は、「平均的に見て彼ら[ニューギニア人]のほうが西洋人よりも知的であると感じた(上35ページ)」という。

周囲の物事や人びとに対する関心も、それを表現する能力においても、ニューギニア人のほうが上であると思った。(上35ページ「プロローグ」)

彼は、ニューギニア人のほうが知的である理由として、2つの可能性を挙げている。ひとつはニューギニア人の社会の死因が「昔から殺人であったり、しょっちゅう起こる部族間の衝突であったり、事故や飢えであった」ことだ。

こうした社会では、頭のいい人間のほうが頭のよくない人間よりも、それらの死因から逃れやすかったといえる。(上36ページ「プロローグ」)

それに対し、ヨーロッパ社会の死因は疫病であり、「疫病で死ぬかどうかの決め手は、頭のよさではなく、疫病に対する抵抗力を遺伝的に持っているかどうか(上36ページ)」だった。ニューギニアでは頭のよい人が選択され、ヨーロッパでは疫病に強い人が選択された。その結果、2つの世界の人間が出会った際には、疫病が伝搬されるために頭のよいほうが疫病に強いほうに征服されてしまう。皮肉なものだ。

2つ目の理由は、欧米の子どもたちが受動的に時間を過ごしていることだ。

アメリカの標準的な家庭では、子供たちが一日の大半をテレビや映画を見たりラジオを聞いたりして過ごしている。テレビは、平均して1日7時間はつけっぱなしである。これに対して、ニューギニアの子供たちは、受動的な娯楽で楽しむぜいたくにはほとんど恵まれていない。たいていの場合、彼らは他の子供たちや大人と会話したり遊んだりして、積極的に時間を過ごしている。子供の知性の発達を研究する人びとは、かならずといっていいほど刺激的な活動の大切さを指摘する。子供時代に刺激的な活動が不足すると、知的発達の阻害が避けられないとも指摘している。(上37ページ「プロローグ」)

この議論は集団の平均についての議論であるから、そのまま個々人に当てはめることはできない。ずっとアニメを見ているのに賢い子もいれば、そうでない子もいる。だが、社会全体を見渡すと、著者が指摘したようなことが言えるのだ。現在は幼児にスマートフォンを持たせることの弊害が心配されている。どのような弊害があるのかないのか、私も重大な関心を持っている。だが、私の年齢を考えれば、彼らが成人し中年になるところを見られない。残念なことだ。