個人と集団の話の続きです。時間でも同じようなことが言えます。私たち一人ひとりの時間は異なっています。動く速度が違うので、当然のことです。しかし私たちは時間を共有しているように感じることができます。私たちの知覚処理が非常に遅いので、まるで同じ時が流れているように感じられるわけです。では私たちが共有していると「感じられる」時間とは何物なのかという問いに対しては、「各人の時間」を重ね合わせたものの観察から答えを見つけていくしかありません。

つまり、「私たちは同じではない」ということがすべての出発点になるべきだということですね。そしてその違いも大きかったり小さかったりとさまざまです。でも、その違いを認めた上での共存も必要だということだと思います。そこで自閉と繋がるわけですね。

文化の差異とは異なり、身体の差異は言葉を通じた解釈によっては理解することができません。この転回は精神分析の自閉症への着目とも同じ方向を向いているように感じます。極端な言い方をすれば、今日の領域横断的な潮流は、私たちはそれぞれに特異な身体によって自閉した存在であり決して理解し合うことなどできないということを、あらためて私たちに突きつけているように思います。すると、やはり重要になってくるのは、そうした理解に頼らない「つながり」方はどういうものなのか、ということになるわけです。

理解に頼らないつながり方は、「気持ちの上では一緒に、肉体的には付かず離れず」いることなのではないかと思います。相手を異なる存在と認め、そのままいる。同調しようとしたりさせようとしたり、理解しようとしたりさせようとしたりしない。でも一緒にいることを意識する、そのようなあり方ではないでしょうか。インタビュアーの言う「ゆるくつるむ」に似ていると思うのですが、これでは繋がってなんかいませんかね。

最後に、貴兄の「人間は社会的な動物であるという言に違和感を抱いてきた」というコメントについてひとこと言わせてください。「人間は社会的な動物であるから、コミュニケーションしなくてはならない」というような語り口で「社会的な動物」が使われるのであれば、それは間違っていると私は断言します。自閉症の疾患化と排除は、このような思想のもとにおこなわれるのでしょう。ここで使われているコミュニケーション(という言葉が指すもの)は、非常に狭い範囲の「あいさつ」であったり「気遣い」であったりするので、非常に一面的な物の見方です。

ご承知のように、私も「人間は社会的動物である」という言い方をします。ただしここで言う「社会」には社会に属さない人も含まれます。ニホンザルも馬も、群を作ります。しかしそこにはかならず群に属さないメンバーが存在しています。それらをひっくるめてひとつの社会とみなします。人間も同じです。コミュニケーションをしないこともコミュニケーションの一種であるという認識を冒頭で確認しましたが、群(社会)に属さないことも含めてひとつの社会なのです。これは「社会」という言葉の生物学的な使い方で、あまり一般的ではないかもしれませんので、もしかしたら使い方に注意すべき語なのかもしれません。少し脱線しますが、戦前に『蟻の社会』という本を書いた学者が共産主義者ではないかと疑われたという話を聞いたことがあります。生物学で言う「社会」と、一般の人が使う「社会」と言う言葉は、中身がずいぶん違っています。「社会的な動物」という表現にしてもしかりです。これは生物学的に観察されたことであり、規範でもなんでもありません。

非常に長くなってしまいましたので、ここで終わりにしたいと思います。続きは今度お目にかかったときにでもしましょうか。それにしてもインタビュアーはよくいろいろと知っていますね。名のある方なんでしょうか。