私は松本の「当事者となるための要素」を読んで、なるほどと思いました。当事者になるためには「自分と似た境遇にいる人たちのグループに入る」ことと、そこに「ちょっと上の先輩」がいることが必要というのは、面白いです。その背後には「お互いをエンパワーメントするようなグループが必要」という考え方があるのですね。たしかに、誰でも当事者というのでは、「当事者主権」が本来持つべき意義がなくなってしまいます。

ですが、私にはまだ心配が残ります。インタビューでは、女性を攻撃する「弱者男性論の人たち」が問題とされていますね。私もこのような人びとがいることは知っています。女性が不当に大切にされていると考え、女性専用車両を作るのは男性に対する逆差別だと言っているような人たちですよね。このような人たちは「語りの中で自分自身がエンパワーメントされている感じがしない」と言っていますが、ではこの人たちがグループを作り、その中でクダを巻き合うことでエンパワーし合っていると主張すれば、この人たちも当事者だという主張に対抗できなくなるような気がします。私は「当事者」であるためにもっと愚直な、それこそ倫理的な基準が必要に思うのですが、どうでしょう。

話を身体性に戻しましょう。

かつては人の精神とは解釈によって理解可能なものだとされていたわけですが、実は人の精神を完璧に解釈するなんてことは本当はできないのではないか、と考えられ始めている。
というインタビュアーの指摘は、「松本さんが以前、雑誌『atプラス』(atプラス30/臨床と人文知)でお話しされていたこと」とありますから、松本も指摘していることなのでしょうが、私も以前から考えていたことです。私がそう考えてきた理由は2つです。ひとつは個人が持つデータをすべて理解しようとすれば、その個人が持っている情報量をすべて収める記憶容量が必要になり、それは人間の脳の許容量を超えるということ、もうひとつは、個人の持つデータをすべて取り出すことは不可能だということです。ただし、完璧な解釈はできなくても、「いい線」の解釈ならできるかもしれないというのが私の立場です。

それに関連して、「多文化主義」と「多自然主義」の話も面白いですね。「自然そのものは一つしかないが、しかし、その一なる自然を解釈する文化は多様に存在する」という「多文化主義」(文化相対主義)に対し、ヴィヴェイロスという人は、文化は一つであり、私たちが異なる体を持ちその体の感じ方が各々異なるめに、その体の数だけ自然があるとしているのですね。これは非常に面白い考え方です。

私たちは外界を自分自身の体を通してしか認識することができません。ですから、私が認識した外界(自然)を「私の自然」であるとするなら、貴兄の認識した自然は「貴兄の自然」であり、肉体の数だけ自然があるという説明は納得できます。ただしこれは「自然」という言葉の定義に合意している場合の議論です。

私は言語について同様に考えています。ソシュールをきちんと読んだことがないのですが、彼もほぼ同じことを言っているのではないでしょうか。つまり言語の体系(ラング)というものは私たちの外にあるものだが、私たちはその体系を自分なりの取り入れて、自分の言語(パロール)を作っているという考えです。日本語は、日本語話者の数だけあります。ですが、すべての日本語に共通した「何か」が存在していることも明らかです。自然についても、私たちの一人ひとりが感じている対象としての自然はひとつです。でもそれがどのようなものであるのかは、「各人の自然」を寄せ集めて類推するしかありません。私たちが直接研究の対象とできるのは「各人の自然」だけなのですから。
(この項さらに続く)