人がどのようにして言語を習得するのか、詳しいことはわかっていない。AIに言葉を教え込むことはできる。しかしAIは翻訳をこなし、おしゃべりの相手をするが、教わっていない聞いたこともない新しいことを言い出すことはない。ところが人間の子どもは、言葉を覚えると自分で内容を新たに作り出し、文法に沿って言葉を組み立てて、教わっていないことを喋り出す。

文法が苦手という人は多い。ところが、文法に従わない言葉を話す人はいない。意識されなくても文法は人の頭の中に存在している。それがどのように生成され、どのような形で存在しているのかはよくわからない。

私の子どもは、とても小さいとき、手をつなぐことを「てなつぐ」と言った。「てつなぐ(手繋ぐ)」の真ん中の2モーラ(モーラとは日本語の音節単位)が入れ替わっている言い間違いだ。そのうち、「つなぐ」というのがひとつの言葉だと学習し、「てなつなぐ」と言うようになった。余計な「な」は助詞のように聞こえた。手のことは「て」というのだと理解していたようなので、もしかしたら目的語(手)と動詞(繋ぐ)の間には助詞が入り得るという文法を獲得し始めていたのかもしれない。

言い間違いの研究から、語音が生成される仕組みについていろいろなことがわかってきているが、頭の中のイメージがどのように文にまとめられるのかについてはわからないことが多い。ただ、人の言語機能が年長になっても発達し続けることはわかっている。中等度難聴児では、言語は獲得されるものの、その後の言語情報が制限されるため、複雑な構文の獲得に困難が生じる。最近の日本人が複雑な文を理解できなくなっているのも、テレビなどの単純な会話体にしか接する機会がないからだろう。

人間の言語機能は、おそらく遺伝情報に組み込まれ本能的に働き出す基本的な部分と、後天的に訓練によって獲得される部分があるのだろう。それらの部分の境界は明確なものではないだろうと考えられる。この考えは、言語の獲得が、数学の認知や書き言葉の習得と同様のメカニズムでおこなわれているのだろうという推測に基づいている。『数学の認知科学』で示されていたように、人間の数学能力は、「少ない個数なら一目で把握できる」「2つのグループを一緒にすると数が増える」といった基本的な知覚能力を組み合わせ、それを応用することで作られていると考えられる。また『プルーストとイカ』に示されていたように、書き言葉は、言語中枢と図形を認識する部位とを後天的に繋ぐことによって習得される。さらに文字は、チャンギージーが示したように、自然の景色を元に作成され、自然を認識する脳機能が文字の認識にも使われている。

この本では、法文(法律の文章)を理解するのに、言語理解から説き起こしているが、言語理解の最深部にあるのは本能的な直感であり、法文の理解は人工的な理論の理解なのであって、お互いにかけ離れたものである。法文の理解は言語理解一般と切り離して考えねばならないだろう。

また法の論理は論理学の論理とも異なる。論理学はすべての要素(集合の元、演算など)を定義し、その上に組み立てられる。社会生活や人間の行動といった、定義不可能なものを扱うものではない。

議論を緻密に進めようと思うと、言語論や論理学を導入したくなるのだろうが、レベルの違う議論に踏み込むと、本質を見失う。
(この項つづく)