大屋雄裕『法解釈の言語哲学 — クリプキから根源的規範主義へ』(勁草書房)を読了した。読了したと言っても、表紙から表紙までを読んだということで、内容を理解したわけではない。前半は屁理屈を並べ立てたように感じ、退屈だった。後半に入り、非常に面白い議論が展開されたが、最後の4分の1は議論が混乱し、また前半の議論を受けた部分がよく理解できず(前半が理解できていないのだろうからしかたがない)、消化不良になった。だが、最後の部分から「おわりに」にかけては著者の正義を求める熱意がひしひしと伝わって来た。大屋は慶應大学法学部教授で、法哲学を専門としている。

私はやはり哲学とは相性が悪いようだ。端的に言って、哲学は現在の自然科学の知識を取り入れていない。19世紀から20世紀前半の思想体系の上に自分の思想を築き上げようとしており、それは現在の自然科学の知見とはかけ離れたものになっている。これは、昨年末に『〈現在〉という謎』を読んだときにも強く感じたことだし、『新記号論』の中で石田英敬と東浩紀が、理系と文系の統合として訴えていたことでもある。

『〈現在〉という謎』を読んだときに感じたと同じ感想をこの本を読んだときにも感じ、さらにそれが石田や東が訴えていたことと一連のものだと思えるということは、現代の哲学に共通した問題点がある可能性を示唆している。だが、この本から学んだことも、考えさせられたことも多い。

この本の問題点だと私が思ったのは、認知科学や言語理論の最新の知見を取り入れていないように感じられること、そしてさまざまな異なるレベルの議論を一緒くたにしているように見えることだ。

物事はどんどん詳しく分解していくと理解が深まるかといえば、そんなことはけっしてない。たとえば二酸化炭素は炭素と酸素からできているが、炭素と酸素の性質をいくら調べても、二酸化炭素の性質は見えてこない。また、人間の体を理解しようと細胞、核、遺伝子と突き詰めていっても、なぜ人が歌を歌えるのかははわからない。物事、つまり事象を理解するには、その事象が現れるレベルでの分析が必要であり、分析を不必要に低いレベル(より細かいレベル)に及ばせると、かえって事象の本質が見えなくなる。熱を理解するには分子レベルの分析が必要であり、人の心を理解するには私たちが生きて暮らしているレベルでの分析が必要なのだ。

とはいえ、この本の著者の意図もよくわかる気がする。法廷では屁理屈をこねる者同士がやり合うことも多いのだろう。そのような屁理屈に対し、それをやり込めるだけの理論が必要になる。そう考えると、この本で紹介されているわけのわからない屁理屈も、実務的には重要なものなのだろうと思えてくるのだ。

この本は著者の助手論文がもとになっている。助手論文に大幅な手直しをして専門誌『国家学会雑誌』に連載し、さらにそれに手を加えて単行本としたものだ。だから専門家向けに書かれたものであって、私のような素人がわかるようには書いていない。そのこともまた、文系の専門書がどのように書かれるのかを知るよい機会を私に与えてくれた。