新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)は人類に定着するのではないかという観測がある。SARSやMARSのように消滅してしまうのではなく、インフルエンザやロタウィルスのように、誰かが時にかかる感染症になるのではないかということだ。

ワクチンの開発には難渋する可能性があるが、治療薬はすでにアビガン(ファビピラビル)があり、他の抗ウィルス剤も遅かれ早かれ開発されるだろう。妊婦に安全な薬や小児に投与できる薬も開発される可能性は高い。その一方で、どの薬も予防的に投与できるわけではない。したがってSARS-CoV-2は、基本的に不顕性感染として広まり、散発的に症状を出す人がおり、そういった人を抗ウィルス剤で治療するというような状態になる。また、耐性ウィルスが現れれば、耐性ウィルス感染による有症状者への治療は、現在と同じ、対症療法ということになる。

免疫が1年ほどしかもたないのではないかという予想もある。そうであれば、人類への定着を阻止することはさらに難しい。一度かかって治った人でも1年後にはまたかかる可能性が出てくるからだ。

SARS-CoV-2がそのように人類に定着した状態での日本の暮らしを考えてみたい。生活は基本的に元どおりになるだろう。だが、インフルエンザより若干死亡率が高そうであることを考えると、人びとは交流に慎重になるだろうと思う。混雑を避けることは習慣になるだろう。在宅勤務の比率は上がり、満員電車の混雑も緩和されるのではないかと思う。隣の席の人と体が触れるような飲食店は無くなるかもしれない。

観光にも慎重になるだろうと思う。特に外国との往来が復活するのはしばらく後になるだろうし、検疫は厳重になるだろう。クルーズ船は復活できないかもしれない。

食料や生活必需品を輸入に頼ることが反省されるだろう。私はこの機会に農業の振興に力を入れることが重要だと考えている。『資本主義と倫理』でも農業の持つ力が主張されていたが、農業には労働力を吸収する力がある。今までの日本は土木建築により雇用を調整してきたが、建築は不安定だし、環境破壊にも繋がる。人口が減少し、土地が余ってゆく日本では、農業が有望だ。休耕地を減らし、場合によっては農地を広げて雇用を創出することが可能になる。国営の農場を作っても良いだろう。

農業への従事は、発達障害があっても可能である。人付き合いが苦手でも、あまり他人と交流せずに仕事をすることができる。生産性を重んじるのではなく、仕事をすることの充実感を味わうための場として、農業を捉えることができないだろうか。

『資本主義と倫理』で溝端佐登史は、社会が新しくなる際には「[新しい]ルールに即して行動する新たなプレーヤーも同時につくるというプロセスが必要」だと訴えていたが、コロナ後に生まれる新しい社会を予想し、そこで必要となる新たなプレーヤーを作ろうという発想が非常に重要だと考える。