東は「現代社会はあまりに複雑で、すべてを見渡せる視線はもはや存在しない(170ページ)」と述べる。たとえば最近のCOVID-19騒ぎを見てもそれは明らかだ。ウイルスによる感染症という小さな範囲のことであっても、その全体を見渡せている人は少ない。感染症治療の専門家であっても、流行の制御など公衆衛生に疎いことがある。医師であっても感染対策に疎い人がいる。ましてコメンテーターなどと呼ばれる芸能人や評論家がきちんと事実を把握しているわけがない。きちんとした情報を伝えようという気が、特にテレビには希薄で、面白ければいい、ハラハラドキドキさせればいいと考えて番組を構成しているようにしか思えない。だがそれは以前から言われていたことだ。ある分野で有名な人物に、まったく違う分野についてのコメントを求めたりする。有名人であれば何でもいいという態度だ。

いま「選良」と呼ばれる人々は、現実には特定の「業界」の専門家でしかない。彼らはその業界を離れれば、平凡な消費者、無見識な大衆の一員にすぎない。一流の政治学者が凡百なベストセラーやポップスに涙し、一流の経済学者がネット右翼と変わらぬ偏見をもち、一流の数学者がじつに凡庸な国家観や家庭観を語ることは十分にありうる。実際にツイッターのようなソーシャルメディアは、かなりその身も蓋もない現実を暴いてしまっている。(170ページ)

上の引用に出てくる「政治学者」「経済学者」「数学者」には特定のモデルがいるのだろうか。ツイッターをせず、そのようなことにあまり関心のない私にはわからない。

いずれにせよ、選良が大衆を指導する、あるいは啓蒙するという構図には問題があると東は言う。だから、大衆の欲望を抽出し、それを「社会の無意識」として政治の制約条件(165ページ)にしようというのだ。

東は、大衆の欲望が社会に大きな影響を及ぼしている例としてナショナリズムを挙げる。ナショナリズムは民族主義とも国家主義とも訳されるが、自由主義や共産主義のような哲学的な基礎がない。

にもかかわらず、、それは不思議なことに世界中の人々を惹きつけ続けている。その事実は、ナショナリズムの力が、理性ではなく欲望に、国民の意識ではなく無意識に根ざしたものであることを意味している。(172ページ)

ナショナリズムが情念の問題であるとわかれば、なぜ理性的な説得が功を奏さないのかがわかると東は指摘する。私はこの説明が腑に落ちた。ヘイトスピーチも同じだろう。ヘイトに対抗するには、理性的な説得ではなく、無意識の分析から始めなければならないのだ。