インターネットの利用が、かならずしも知見を広めることにつながらないことは、すでにいろいろな人が述べている。情報は能動的に集めねばならず、そこに偏りができるからだ。

ネットは一般に、アクセスしたい情報にはいくらでもアクセスできるし、話したい相手とはいくらでも話すことができるが、逆に(自分にとって)不愉快で無意味な情報はいとも簡単に遮断できる、そのような特徴を備えていると考えられているからである。ネットは、社会学者の宮台真司が言うところの「島宇宙」を強化する。(125ページ)

以前、グーグルの開発者の話を聞く機会があったので、検索について質問してみた。その際彼は検索結果にわざと関係ないものを混ぜるというアイディアを語ってくれた。私も、反対の条件で検索した結果をかならず混ぜるというアイディアを話した。

ところが、サンスティーンがすでにもっと大胆な提案をおこなっていたのだという。

実際にサンスティーン自身、同じ著書[『インターネットは民主主義の敵か』]で、ネットでの公共的議論を活性化させるため、たとえばあらゆるサイトに反対意見へのサイトへのリンクを張ることを義務づけてはどうかと、大胆な提案を行っている。(126ページ)

東は「あまりに極端な提案」だとしているが、私はそうは思わない。たとえば政党のホームページにはかならず他の政党のホームページへのリンクを置かねばならないといった規制ができるし、それはある程度意味のあるものではないか。あるいは、自治体などがパブリックコメントを求める場合、申請によってコメントに関連するウェブページへのリンクを併せて掲載するということも考えられる。

一方で東はツイッターには「島宇宙を横断」する機能があると言い、期待を表明している。

ツイッターのユーザーは、自分の画面に自分が好む人物のツイートだけを並べ、自分専用のコミュニケーション空間(「タイムライン」と呼ばれる)を作ることができる。タイムラインに掲載されない外部のツイートは、多くのユーザーにとっては存在しないも同然だ。(252ページ)

しかし、タイムラインでフォローしている人物のツイートなら何でも受け取ることになるので、その人物が誰かのツイートをリツイートすると、タイムラインにない人のツイートを読むことになる。

ひらたく言えば、ツイッターは、ユーザーに、彼あるいは彼女が決して読みたいと思わなかったものを強引に読ませる仕組みを備えているわけだ。
この仕組みの存在は、あるひとつのツイートが、島宇宙の壁を打ち破り、多様なタイムラインのうえを水切りの飛び石のように進んで、結果として本来ならたがいに繋がるはずもなかったユーザー同士を結びつけてしまうことを意味している。(253ページ)

この仕組みは、人びとの意見を「かき混ぜる」には少し弱いと私は思うが、島宇宙の壁に穴をあける機能として有用であることは間違いない。