広井は、現在の日本での次のような「事実」を挙げている。

  1. 見知らぬ者同士が、ちょっとしたことで声をかけあったり、あいさつをしたり会話を交わしたりすることがほとんど見られないこと
  2. 見知らぬ者同士が道をゆずり合うといったことが稀であり、また、駅などでぶつかったりしても互いに何も言わないことが普通であること
  3. 「ありがとう」という言葉を他人同士で使うことが少なく、せいぜい「すみません」といった、謝罪とも感謝ともつかないような言葉がごく限られた範囲で使われること
  4. 以上のような中で、都市におけるコミュニケーションとしてわずかにあるのが「お金」を介した(店員と客との)やりとりであるが、そこでは店員の側からの声かけが一方通行的に行われ、客の側からの働きかけや応答はごく限られたものであること
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これと対比されるのはもちろん外国なのだが、私は広井とはまったく逆に外国経験がほどんどないので、本での知識、伝聞、日本国内で出会った外国人との経験などからものを述べることになる。

日本人は確かに見て見ぬ振りをする。エレベータで見知らぬ人と乗り合わせたとき、外国人は微笑みかけることが多い。日本人はちょっと首をすくめるような、身をかがめるような動作をするが、「たまたまそんな動作をしただけ」というような雰囲気を混ぜ、相手に対する挨拶であるというニュアンスを薄めようとする。それに対し外国人は目を合わせて微笑みかける。

「他人は潜在的脅威であり、それはお互いそうなのだから、自分には敵意がないということを示すために微笑むのだ」と聞いたことがあるが、本当かどうか知らない。だが、英国で店に入ったときに挨拶しないとどうなるかを実験した日本人があり、その報告では店主から「出ていってくれ」と言われたという。挨拶をしない人間は信用できず、危険を感じるということなのだろう。

日本人は逆に自分の存在を消そうとしているように思う。エレベータに乗ったときなど、自分がいないか、あるいは鉢植えの植物(エレベータの中にあることは珍しいが)でもあるかのように振る舞う。だが、実際に消えることはできないので、エレベータが自分の降りる階以外に止まると、目の前の「開」ボタンを押して、配慮を示したりする。

肩や荷物がぶつかったときも、相手がよろめくほどの衝撃を与えたのなら詫びるだろうが、ちょっと触れただけのような場合は、「なかったこと」にしてくれるだろうと知らん顔をする。もし触れたのが手すりであったり、鉢植えであったりしたら、触れた人は何とも思わないのだろうから、自分のこともそのような環境内の物体とみなしてほしいと願っているのだと思う。

これは日本独特の付き合い方だと思う。外国人はすぐ口に出して詫びることが多い。私も外国人に対してはすぐ詫びるようにしているが、相手によって素早く切り替えるというのは、口で言うほど簡単ではない。