言語学者のソシュールは『一般言語学講義』の中で記号学を提唱した。この本には該当する部分の石田訳が掲載されているが、ここでは彼の解説を引用する。

まず「記号学」の提唱ですが、記号学という学問はこれから打ち立てるべき学問として予告されています。「それはまだ存在していない」が、しかし、20世紀の知にとっては「それ(記号学)は存在すべき権利を有する」のであって、これから起こる知の配置において「あらかじめ決定されている」場所を持つものであるという強い主張が述べらています。
ソシュール自身が打ち立てようとしていた新しい言語学というものが、ほんとうの意味で成立するためには、さらに一般的な学として「記号学」というものがなくてはならない。これから生まれるべき一般学としての記号学が成立した暁には、言語学はその一部になるだろう、と。(34ページから35ページ)

この時期の記号論を石田は「現代記号論」と呼ぶことにしている。石田と東は「現代記号論」がアナログメディアを基礎として起こってきたものであり、現代のデジタルメディアには対応できない古いものになってしまっていると主張する。

ソシュールの発見は「言語は記号のシステムである」というものだったのですが、記号学が扱うすべての記号活動が「言語学」と同じような性質のものとは限らない。ところが、ソシュールの仕事が水先案内を果たしたために、すべての記号を「言語のようなもの」として、言語モデルを基本に考える傾向が生まれてしまった。(40ページ)

そこで石田は記号学の原点に立ち戻り、デジタルメディアを前提とした「新記号論」を新たに組み立て直したいと望んでいる。彼は、記号論が「言語中心主義」から離脱するには、記号論が文字を扱うようにならねばならないという(49ページ)。ただし、彼の言う「文字」は活字のことではなく、デジタルデータを主体とした「テクノロジーの書く文字」である(51ページ)。彼は文字と記号のつながりを次のように説明している。

テレビであれ、インターネットの動画であれ、iPodの音楽であれ、ぼくたちは音・イメージや言葉など「記号」だけを[引用者注:テクノロジーの書く文字から]取り出し、あたかもそれが現前しているように見なして生活しています。(61ページ)

そこで彼は「テクノロジーの書く文字」を研究する文字学(グラマトロジー)が必要だと主張する。いわゆる文字を扱う文字学は、デリダが主張したもので、自分の文字学はソシュールの記号学と同様にあるべきものとして約束されていると述べた(65ページ)。石田も、自分の(テクノロジーの文字を扱う)文字学には、約束された場所があると考えているようだ。

石田の話には壮大な夢があり、非常に興味深い。だが、デジタルデータを文字と捉え、そこから生まれる音や映像を記号と捉える見方には、正直言ってついていけない。喩えとしてかなり無理があるように思う。文字や記号という言葉を広く再定義すれば良いのだろうが、別のもっとしっくりくる喩え方があるのではないだろうか。彼の中では言葉によるコミュニケーションとデジタルなつながりが連続したものと認識されているようだが、私はデジタル技術に関わりすぎたせいか、両者が連続したものに思えない。したがって、私は私なりの「理論」を探さねばならないことになる。