(掲載日を変更しました:10月27日→10月28日)

最後に、彼が述べるマスメディア批判に触れておこう。彼は「マスメディアの気まぐれを指摘することも、私たちを非常に不愉快にさせる一部のメディアについて何が気に入らないのかを述べることも、しようと思えばいつだってできます(152ページ)」と述べている。

メディアは、私たちが公共的な意思決定過程において事実や知識を得る際の主要な情報源です。そのメディアに重大な問題がある、ということは誰でも合意してくれるのではないでしょうか。(152ページ)

その原因を彼は次のように推測する。

おそらく最も根本的な難点は、現時点のニュースや流行がこの先どうなるのかを、メディアが滅多に考えないことでしょう。メディアは「報道価値」のあるもの、つまりセンセーショナルなもの、新奇なものを強調します。この点ではテレビは旧来のメディアよりずっとたちが悪く、犯罪者ですらあります。というのは、テレビは一地方の世論を誘導するばかりでなく、国全体、あるいは世界が注意を向ける「焦点」を作り出してしまうことがあるからです。(152ページ)

彼は米国の対中国外交政策を例にとり、「このような話題について正当な見解を持つために人が本当に知らねばならないことは、中国の制度と歴史についての多少なりともの理解」であるのに、「メディアは、今日、今週と、何が行われているかを知らせることに忙し」く、必要な情報を与えていないという(153ページ)。

現代日本で言えば、韓国の政治状況について、法相の曺(チョ)国(グク)氏の辞任について「タマネギ男」などと揶揄する報道に終始し、なぜ文(ムン)在寅(ジェイン)大統領が彼を起用したのかに切り込まない主要メディアの状態がまさに彼の指摘する状態だろう。

彼は、私たちの注意力が限られているために、たくさんの情報を与えられても、処理しきれずに忘れてしまうのが問題だという。全部覚えていられれば、次から次へとニュースを与えられても問題ない。しかし、「注意力の希少性(153ページから154ページ)」ゆえに、人は大事な問題を忘れていってしまう。


私たちの社会は情報が溢れているという不都合はよく知られていますが、一過性の情報や束の間の知識から身を守るために慎重に戦略を立てている人は、ほとんどいません。ニュースを「そこにあるから」という理由だけで受け入れる必要などないということは、多くの人にとって奇異な考えのようです。(154ページ)

この講演は1982年のものだが、メディアリテラシーの重要性は30年以上経った現在、いっそう大きなものになっている。