児には口唇口蓋裂があるが、手術はしないという。その理由を両親は次のように述べる。

桂子[母]は「別に私はその必要を感じませんでしたね」とあまり感情を込めずに答えた。
展利[父]の答えはまたもや意外であった。
「いやあ、顔を手術したら誰になっちゃうの? っていう感じでした」
「誰になっちゃう?」と私は思わず聞き返した。
「手術したら、朝陽[児の名]じゃなくなっちゃうような気がしたんです」(68ページ)

この両親、特に父親は、口唇口蓋裂も児の個性として受け止めているのだ。昨日も書いたが、発達の差異や身体的な差異をその人の個性として認めようという考え方があり、私もそれに同意している。しかし社会全体はまだまだそのようになっていない。その中で、この両親がきわめて自然にこの考え方をしていることは、驚きでもある。

彼らはまた、人工呼吸器の装着も考えていない。その理由を父は言葉を探しながら、次のように説明した。

「そこまでして……支配されたくないというか、振り回されたくないというか、人工呼吸器というのは、僕らには無縁なものと思っています。ただ、考え方は変わるかもしれない。でも今の段階ではそう思っています」(70ページ)

この「支配される」という言葉が面白い。それどころか、父は酸素も吸引もなしで朝陽を外に連れ出す。

「天気に合わせて抱っこで連れ出しちゃいますね。寒ければ何かにくるんで、出かけます。天気が悪ければ家の中で抱っこしてぐるぐる歩き回りますよ。添い寝しちゃうこともあるし。散歩の時、酸素は持って行きません。完全無視です。そのままぱっと行っちゃいます。家の周りの芝生の上を歩き回るんです」(47ページ)

母は病院受診などで外出するときは児の鼻の下にテープを貼る。ところが父はテープも貼らずに「さーっと出ていく」のだ。父は松永に「表情を変えずに、胸を張るでもなく、照れるでもなく」説明した。

「そうですね。人にどう見られるかが人生じゃないと思っています。見かけじゃありません。散歩に連れて行くと、朝陽は本当に嬉しそうなんです。なんだかね、顔の表情がほっこりするんです」(48ページ)

私にはこの父親が非常に魅力的な人物に感じられた。

もちろん、すべての人がこの父親のように感じ、振る舞えるわけではない。事実、母親は同じようには振る舞えない。それは当然のことだろう。私も、自分の子や孫に障害のある子が生まれた場合にどのように振る舞うのか、自信を持って言うことはできない。私はどのように振る舞うだろうか。そう考えるとこの父親がますます魅力的な人物に思えてくる。