中井久夫『私の日本語雑記』(岩波書店)を読了した。中井は精神科医で、現代ギリシア詩の翻訳でも有名である。この本は雑誌「図書」に隔月連載したものを書き直したものとのことだ。中井は旧制中学時代から英語と独語を学んでいる。旧制高校では独語をかなりみっちりと仕込まれたようだ。ギリシア語、ラテン語はほぼ独学のようで、仏語は大学で2年間学んだだけだという。さらにそれ以外の言語の知識もあるようだ。

中井はギリシア詩のみならず、ヴァレリーによる仏語の詩も翻訳しているが、「学校でしっかりと習った言語の詩は翻訳しにくい(162ページ)」という。

今なおドイツ語の詩は訳せない。訳そうとすると原文が頭の中で鳴る。原文が本家である。それを日本語に直すのは、堂々たる汽船を手漕ぎ船で追いかけるようなものである。
ヴァレリーの詩集『魅惑』を訳する時にも類似の現象が起こった。16歳の時に暗唱していた詩が50歳を過ぎてもいたずらするのである。(163ページ)

原語で詩が味わえるとき、深く味わえれば味わえるほど、それを日本語に移すことが難しくなる。これは直感的に了解できることだろう。原文の持つリズム、単語の背景にある文化や裏の意味、そういったものが原文から汲みとれるなら、それを訳すという作業は、その背景も含めてすべて伝えるということになる。その難しさは、詩を散文で説明するより難しい。翻訳した先も詩なのだから。

ただし翻訳が難しいのは詩だけではない。散文でも翻訳は難しい。いや、それこそ「informed consent」の訳語に四苦八苦しているのだから、単語ですら難しいことがあるのだ。

それはそれとして、16歳でヴァレリーの詩を原語で暗唱していたというのがすごい。仏語にはリエゾンと呼ばれる発音規則があり、単語を単独で読んだ場合には発音しない子音を、次に母音が続くと発音したりする。たとえば数字「20」を意味するvingtは「ヴァン」と発音するが、「21」のvingt et unは「ヴァンテアン」と「t」を発音する(実はこのvingtという語は21から29では後に母音が来なくても「t」を発音する)。リエゾンも規則なので、規則を覚えればある程度正確に発音できるようになるのだが、私は覚えきれない(私の持っている文法書では規則が2ページにわたって記載されている。規則には例外もある)。だから私は初見の仏語文を自信を持って音読することができない。そして音読できないものは暗唱できない。中井は誰かに読み方を教わったのだろうか。たいしたものだと思う。