映画『地球の静止する日』について、考えたことを書きたい。これは1951年に作成された20世紀フォックス製作の米映画で、監督はロバート・ワイズ、主演はマイケル・レニーだった。2008年にキアヌ・リーブス主演でリメイク作品が制作されたというが、私が観たのは1951年作品だ。以下、映画の内容に触れるがお許しいただきたい。

UFOが米国の首都ワシントンに着陸し、人間の男の姿をした宇宙人が降りてくる。彼は人類が滅亡の危機にあると警告しに来たのだ。私が興味を持ったのは、ストーリーではなく、映画の中で説明されている宇宙の秩序を維持する制度についてだ。

宇宙人たちは強力な警察ロボット組織を作り、それに平和の維持を任せている。ロボット警察は強大な力を持ち、惑星を消滅させることすらできる。宇宙人たちは平和に暮らし、戦争などないと言うが、戦争を起こそうと企る種族が現れれば、それだけで警察から目をつけられ、その種族は惑星ごと滅ぼされてしまう。強力な警察国家の宇宙版だ。

このような形で平和を維持するという発想は、米国人らしくない発想に思えた。これでは人間はおとなしく生きるしかない。まるで家畜のようだ。争い事が良いわけではないが、怒りや不満は社会にとって必要なものだと思う。この映画の原作者は、人間の知性が発達すれば、怒りや不満のない人びとが誕生すると思ったのだろうか。怒り、不満、悲しみといったネガティブな感情がないなら、ポジティブな感情もなくなっているのではないだろうか。そのような世界には詩も絵画も、あらゆる芸術がなくなっているのではないか。

物語の最終段階で宇宙人は銃撃で殺されてしまうが、UFOに同乗していたロボットにより蘇生される。それを見た地球人の女性が宇宙人に「生き返ったの?」と訊くと、彼は「少し永らえさせただけだ。本当の命は神のみぞ知る」と答える。この言葉は良い。この宇宙人は外見は30代だが、実際の年齢は75歳なのだそうだ。だから医学が発達すると200歳、300歳と生きるという設定なのかもしれないが、「不死ではない」というところに節度が感じられて良い。

癌が治っても、冠動脈の狭窄がステントで広げられても、「助かった」わけではない。この世にいる時間が「少し」伸びただけなのだ。