ハイゼンベルクの人生を語る場合、第2次世界大戦と原爆製造の話を避けてとおることはできない。彼はナチスに反対し、ユダヤ人への迫害を非難したので、秘密警察(ゲシュタポ)の尋問を受けたことがある。地下室に連れて行かれ、ずいぶん怖い思いをしたようだ。

高明な科学者がナチスに同調し、不正な手段を使ってユダヤ人アインシュタインの相対性理論を排斥しようとしたことについて、彼は次のように断言している。

不正な手段を使うことは、その張本人が自分の命題(テーゼ)の説得力を自分自身でもはや信じていない、ということの証拠にちがいないのだ。(73ページ)

1993年、当時31歳だったハイゼンベルクはライプチッヒで教授職を務めていたが、優秀な学生や研究者が次々とドイツを離れ、大学内への干渉が一層ひどくなることに危機感を持ち、「教授職を示威的に辞任することによって、大声ではっきりと〝これ以上には進ませない〟という意志を表現しようと(242ページ)」計画を立て、その相談にマックス・プランクのもとを訪ねた。

だが、プランクは憔悴しており、きわめて悲観的だった。彼は「あなたが少壮の人として、まだ楽観的であり、そのような手段でもって破滅を阻止できると信じておられることを、私はうれしく思います(242ページ)」と言いつつも、何の助言もできないだろうし、ドイツの大学の破局を阻止できるという希望は持てないと語った。プランクはヒトラーと直接話しており、ヒトラーが決して自分の考えを変えないことを感じ取っていたのだ。

プランクはドイツから脱出することは、移住先での就職口をひとつ奪うことになるとしたうえで、さらに次のように述べている。

あなたは外国で多分静かに仕事ができるかも知れませんし、危険の埒外にとどまれるでしょう。そして破局が終わった後、もしあなたが望むなら、ドイツへ帰国することもできるでしょう — あなたがドイツの破壊者たちといかなる妥協もしなかったということで、良心の呵責なしにね。しかし、それまでにはおそらく長い年月が経過し、あなたはちがった人になり、そしてドイツにいた人々も変わっているでしょう。そのときに、どこまであなたが変わってしまった世界で、よき指導者になり得るかは、たいへんに疑わしいのです。(243ページ)

このプランクの言葉は、読んでいて胸が痛くなる。進むも地獄、退くも地獄の心境だったに違いない。プランクはとどまることを選んだのだが、その心中には次のような絶望的な思いがあった。

人はもはや正しく行動することはできません。われわれがどんな決定を下そうとも、何らかの種類の不正に参与することになります。ですから結局のところ、誰も自分に頼るしかありません。(245ページ)

ハイゼンベルクも、悩みに悩んだあげく、ドイツにとどまることを選んだ。私がもし戦前の日本に生まれていたならどうしただろう。反政府の態度を表明して殺されれば、筋を通したことになるとはいえ、何かを成し遂げたことにはならない。何かを成し遂げたいと思えば命を永らえなければならないが、国内で戦って生き延びることは難しいだろうし、戦わないとするなら政府と妥協せざるを得ない。では外国に避難したらどうかと言えば、それはそれで国内の仲間を見捨てたことになるし、戦いを避けたことにもなる。戦後に帰国しても、仲間に会わせる顔がないかもしれない。