『数学の認知科学』で著者らは人間の認知と切り離された「普遍な真理としての数学」は存在しないと断定している。そのような数学はロマンでしかなく、すべての数学は、小さい数に関する人間の基本的能力(把握、計算)と経験から生まれたもので、人間の認知と切り離すことはできないとしている。言葉を換えれば、数学は私たちの外にあるのではなく、私たちの内にある。自然界には法則があるが、それを人間が理解する場合、自分の認知力をメタファーにより拡大して理解しているのであるから、その結果として誕生した数学は人間の認知に依存しているという考えだ。

それに対し、量子力学(理論物理学)は素粒子という「物」を扱っているという観念が強いので、理論の背景に、人間の認知から独立した「体系」の存在を意識することが多いようだ。ハイゼンベルクは、独自の宗教観を持っていたと言われるアインシュタインとの会話の中で、次のように述べている。

自然法則の簡明さということは、客観的な性格をもつもので、それは単に思惟経済だけの問題ではないということを私もあなたと同じように信じます。(112ページ)

この「客観的に捉えられる簡明さ」の背後にあるものが「中心的秩序」なのだろう。これはアインシュタインの宗教観とも通じたものではなかったかと思う。昨日引用した「中心的秩序」に関する彼の発言を再度引用しておく。

もちろん、われわれにとっては、真実はわれわれの意識の構造に依存しているということを知っている。客観化し得る領域は、われわれの真実の単なる一部分に過ぎない。しかし主観的な領域が問題にされる場合でも、中心的秩序は作用しており、それは、この領域の姿を偶然のいたずらとか、あるいは勝手なものとみなすわれわれの権利を拒否するのだ。(343ページ)

ここで注目したいのは、彼が「真実はわれわれの意識の構造に依存している」と述べている点である。この部分だけ読むと、「真実」は私たちの意識の反映であり、意識によって左右される危ういものであると述べているように思えるが、それに続けて、その「われわれにとっての真実」の中にも、一部であるにせよ客観化しうる領域があると述べている。つまり、私たちが真実だと思っていること(われわれにとっての真実)の多くは私たちがそう思っているだけのものなのだが、中には「本当の真実」(客観化し得る領域)も含まれているとの主張だ。さらに、その「われわれにとっての真実」でさえ中心的秩序の支配下にあり、決して意識によって恣意的に認識されるものではないと述べているのだ。

彼は、私たちが認識した世界が私たちの意識の反映であるとはみなしていない。逆に言えば、私たちの外に、中心的秩序が実在していると考えている。それは素粒子の世界を支配する規則性なのだろうが、それを人間が解釈するとき、人間が作った解釈を素粒子世界の反映と考えて実在するものとみなすか、あるいは人間の認知機能の産物とみなすか、という立場の違いが、客観性を持った(人間から独立した)領域の存在を認めるか認めないかという立場の違いを生んでいるように思う。