瀬戸がコンセプトとして重視するのが、ミヒャエル・エンデ『モモ』である。モモは円形劇場に住む10歳ほどの女の子で、時間どろぼう(灰色の男として登場する)たちと戦って世界を救う。「時は金」のメタファーが行き着く先にいる時間どろぼうの概念は、すでに現実に使用されているという。

些細なことで警察に電話をするのは時間どろぼう(time theft)の罪になりかねない。[中略]すでに1984年のアメリカのある新聞は、「合衆国全土の従業員は今年度1500億ドル分の時間を会社から盗む計算になる」と報じた(サンフランシスコ・クロニクル)。その手口は、早退、遅刻、長い昼休み、私用電話、仮病、廊下での雑談などである。これらはすべて時間の窃盗だという。(146ページ)

ただし、『モモ』に登場する時間どろぼうたちは、本当に人の時間を奪い去ってしまうので、この記事の従業員たちの「どろぼう」とは意味が異なる。だが、「時は金」のメタファーが生きていることには間違いない。瀬戸は次のように警告する。

〈時間はお金〉のメタファーが増強されて人間性が奪われる世界はすぐそこに迫っている。私たちはストーリーを追うのをやめて、このメタファーと対峙しなければならない。灰色の男たちは姿を変えて私たちの生きた時間を巻き上げ、私たちが実感できる寿命は縮まり、貧富の差は拡大し、貧困に発する悲劇と犯罪が増え、社会的不満がますます高まっている。一方環境破壊が進み、異常気象が常態化し、資源は枯渇寸前である。このまま資本主義が成長経済をモデルとして持続発展するとは考えにくい。(184ページ)

論理にやや飛躍があり、すべてに賛成することはできないが、瀬戸の危機感は共有できる。そして対峙のための新しいメタファーが〈時間は命〉なのだ。これは『モモ』の中でも具体的に提言されている。

ただし命は独語のLebenの訳なので、英語のlifeと同様に多義である。生きること、生活、生涯、生命、命が一語に凝縮され、それらすべてが時間概念に厚みを与える。(185ページ)

このLebenの訳語には「ちょっとしたいきさつがある」という。

『モモ』の最初の大島かおり訳(1976年、岩波書店)では〈時間は生活〉であった。これに子安美知子『「モモ」を読む』(1987年、学陽書房、のち朝日文庫)の中で〈時間はいのち〉を提案した。その後大島訳は改訂されて、〈時間は生きること〉となった(2005年、岩波少年文庫)。全体として優れた訳だが、ここだけはメタファアーの観点からも〈時間は命〉を取りたい。(189ページ)

瀬戸が最終的に提案するのは「時間は円環する命(203ページ)」なのだが、このメタファーで訴えたいのは時間をゆったりと過ごすスローライフだ。