テレビで取材する場合、認知症の人を取材するのだから、さまざまな制約や困難が生じる。彼は次のように述べる。

テレビの取材は、時として良いことを伝えようと考えても、心ない人々から取材の当事者が予想外の言葉を投げかけられ、傷つくというようなことが起きることがあります。
だから、取材の交渉をする時に、「絶対に迷惑を掛けるようなことはしません」と言うことはできないのです。
最終的に取材を受けてもらう決断は、自分でしてもらうしかない。
それだけに私たちは、協力してくれた相手に迷惑をかけないようにできる限り気を遣うし、守る責務があると思っています。(77ページ)

だが、取材している際には認知症の行動・心理症状がなかなか撮れずに困ったと言う。

ユマニチュードのケアによる効果を分かりやすく伝えるためには、認知症の人に行動・心理症状が現れ、ケアやコミュニケーションに苦労する様子を撮影する必要がありました。
しかし、いくら家族や施設が取材を許可してくれたからと言って、いきなり本人に断りもなく、カメラを向けるわけにはいきません。
そこで、見よう見まねのユマニチュード的アプローチで、視線を合わせ、笑顔で穏やかに話しかけ、「是非、○○さんの頑張っているところを撮影したいのです」と、取材の趣旨を説明し、承諾をもらえるようにお願いします。(199ページ「あとがき」)

すると患者は普段嫌がっていたオムツ交換や口腔ケアを「ジッとカメラの方を見つめて(200ページ)」受け、嫌がらなかったことがしばしばあったという。彼が推測するとおり、これは患者と彼の間にコミュニケーションが成立したからなのだろう。取材しながら見ていて、彼は技法だけでなく、その哲学も学んだのだと思う。実際、取材に協力した患者の家族にしても、ジネストの様子を見て「気づきがあったのは、むしろケアをする姿勢、あるいは哲学と呼ばれる部分でした(132ページ)」と言う。

哲学は重要なのだが、ユマニチュードのケア技術としての有効性も非常に有益である。

必ずしも高い志を抱いて、介護業界で働く人たちばかりではないというのもよく聞く話ですが、既に超高齢社会に突入した日本では、そういう人たちをも介護業界を担う貴重な戦力として、育てていく必要があると思います。
その時[中略]優れた技術や知恵を、誰でも再現が可能なように体系化することは、とても意味のあることだと私は思います。(149ページ)

この意見には私も賛成する。ユマニチュードがその体系の一部になることは確実だろうと思う。