2018年10月31日のブログで海野泰男『授乳の聖母/セザンヌ夫人の不きげん』(文藝春秋)について述べた際に、「絵画に言葉はいらない」という主張に対する海野の疑念ないしは反論に対して私は「画家は言葉にできないものを絵にしたのだろうが、物書きは絵で伝えることなどできないから言葉にする」と書いた。この前後の論旨がわかりにくいと指摘されたこともあり、写真のキャプションに言寄せて、絵と言葉の関係について再度述べてみたい。

絵画にしろ写真にしろ小説にしろ、すべての作品は公開されたとたんに独立した存在となる。海野が「作品は作者を離れる」と言うとおりだろう。だから、作者の意図と異なった解釈をされたとしても、それを避けることはできない。作品は、作品自体が持つ力によって評価され、解釈されるのだ。だが、その作品の解釈を限定したいと作者が意図することがある。作品に対する思い入れからくる場合もあるだろうが、作品に自信がないことからくる場合もあるのではないか。

山中が例として挙げた写真のキャプションの場合、おそらく写真の持つ力(それは結局は被写体の持つ力なのだろうが)が強く、月並みなキャプションがその力を削ぐような働きをしたので、山中の不興を買ったのだろう。写真に添えるキャプションにじゅうぶんな力があれば、両方を合わせた作品として、より大きい力を持ったはずだ。たとえば広告にはその良い例がある。良い写真に優れたコピーライトが付けば、写真の力はぐっと強くなる。彼の旧知の写真家はコピーライターとしての才能に欠けるということだ。

ちなみに絵に言葉を添えることは、昔から行われてきた。掛け軸の絵に讃を添えることもあれば、詩画や絵手紙という分野もある。言葉は、心して使えば絵の邪魔をしない。

話を戻そう。同じものに感動したときでも、人によってその表現は違う。違う言葉で表すこともあるだろうが、違うメディアを使って表すこともあるだろうと思う。小説を書く人もいれば詩を書く人もいるだろうし、踊ったり作曲したり絵を書いたりする人もいるだろう。人は自分が好んだ方法(メディア)で思いを表現する。

作品の批評・鑑賞というのは、その作品に接して感じたことを言葉で表すことだ。小説を読んだり音楽を聴いたりしてインスピレーションを得て絵を描く人も多いと思うが、そのような行為に特別な名前はない。言葉で表すことにだけ名前があるのは、やはり言葉に特権的な地位を与えているのかとも思える。それはさておき、作品が作者から独立したものであれば、その作品に接して感じることも、作者が思い描いていたことと異なるかもしれない。だがそれは紛れもなく鑑賞者・評者が感じたことなのであるから、作者はそれを受け入れるしかない。おまけに、評自体が評者からすでに離れているのだから(評は評者の「作品」である)、作者が読んだ評は「その評から作者が読み取ったもの」でしかない。作品にいろいろな見方があるように評にもいろいろな読み方がある。作者が自作品の評を読んだときに受ける感じというのは、そのように作品から多重に切り離されたものなのだ。

「絵画に言葉はいらない」というのは、画家としてまっとうな主張だと思う。言葉で伝えることができるのなら、彼は絵を描かなかったかもしれない。だが、その絵を見た人が何かを感じ、心を動かされた場合、模写をすることもあれば、その作品をモチーフにして新たな作品を描く人がいるのと同じように、言葉で自分の気持ちを伝えようとする人がいるのだ。その人は絵は描けないが言葉を紡ぐことができる。その言葉を、言葉であるからというだけの理由で排斥することは、理にかなったことではない。