國分功一郎(こくぶん・こういちろう)『中動態の世界 — 意志と責任の考古学』(医学書院)を読了した。

非常に刺激的な本だった。本質的な議論に直ちに入ってもいいのだが、とりあえずこの本がどういう本であるかについて述べておきたい。

「中動態」とは何かについてはさておくとして、この本の第1章から第8章までは過去の研究をまとめた、比較言語学的な考察が中心となり、そこにアレント、ハイデッガー、ドゥルーズ、スピノザなどの哲学者の意志論が関連して述べられている。言語学的知識が要求されるわけではないが、古典ギリシア語やラテン語が数多く出てくるので、そのようなものを好まない人には読みづらい部分だろう。第8章はスピノザ論だが、それまでの章と異なり、中動態の概念を使ってスピノザの考えを読み解く作りになっている。

最終章の第9章ではハーマン・メルヴィルの『ビリー・バッド』という小説が題材になっている。この本のタイトルに挙げられているのは中動態という文法上の用語(動詞の活用形のひとつ)だが、副題が示すようにそれを用いて意志と責任について概念を再構築することがテーマとなっている。第1章の前半で、導入として意志と責任の問題が取り挙げられるが、最終章はふたたびテーマに戻り、能動でも受動でもない中動という視点からこの小説を読み解き、さらに意志と責任について考え直している。

「中動態」という言葉はなじみのない言葉だが、言語学や哲学では古くから論じられていたようだ。古典ギリシア語には存在しており、ラテン語にもその名残が見られる。インド・ヨーロッパ語族の祖語には中動態があり、そればかりでなく受動態がなく、能動態と中動態が対立していたと考えられている。また、日本語の「れる」「られる」も中動態の系譜に連なっており、中動態の概念は古代の言語の多くに存在していた可能性が示唆される。

しかし中動態は徐々に勢力を減じ、代わって受動態がその位置を占めるようになった。そのため、能動態もその役割を変えた。現在の私たちは、その「能動態」「受動態」という区別を無意識に受け入れることで感化され、意志に根ざした責任観を持つようになっているという。

私はギリシア語もラテン語も学んだことがないので、國分の主張が正しいのかどうか判定することができない。だが、私の断片的な諸知識と、彼の主張は整合する。だから私は彼の主張が事実に基づいた根拠のあるものだと判断した。これは以前、私のブログ記事に対して、本の著者をどうしてそこまで信じられるのかというコメントが寄せられたことと繋がっている。

主張が腑に落ちるというだけでは弱いと考え、先日、國分の講演会を聞きに行った。直接彼の姿を見て生の声を聞くことで、彼の人となりがわかるのではないかと考えたからだ。結論から言えば、彼は非常に真面目で、真摯であり、かつ慎重であった。改めてこの本の記述を根拠のあるものとして受け入れることとした。