もうひとつ気になる報告があった。鼻粘膜焼灼術中の脳出血の事案である。非常に難しい事案だと思った。事案の概要は次のとおりだ。

患者は、おそらく鼻出血の治療のため、某病院の耳鼻咽喉科で鼻粘膜焼灼術を受けた。この手術は鼻出血の止血や予防(この場合は鼻中隔粘膜が対象)、アレルギー性鼻炎の症状緩和(この場合は下鼻甲介粘膜が対象)などを目的としておこなう。焼灼とは「焼く」ことで、電気(高周波)、化学物質(硝酸銀、無水クロム酸、トリクロロ酢酸)、レーザ光などを用いて物理的・科学的に粘膜を焼く。もちろん痛いので、局所麻酔薬(外用のキシロカイン液)を塗布して表面麻酔するが、粘膜の浅い部分しか麻酔できないので、深部に痛みを感じることがある。深部の痛みをコントロールするには局所麻酔薬を注射するが、痛みはそれほど強くないことが多いので、注射せずに表面麻酔だけでおこなうことが多い。また、塗布した局所麻酔薬は血行により「洗い流されて」しまうので、局所の出血予防・視野の確保も兼ねて、血管収縮剤(ボスミン)をキシロカインに混ぜて塗布することが多い。

患者は電気焼灼の処置中に強い痛みを訴えたが、医師は処置を続行したようだ。その後の状況の詳細は不明だが、患者は脳出血を起こし、現在「重い後遺障害が残存している」とのことだ。

鼻出血は死に至る病ではない。鼻が脳に近いことから恐れる患者が多いが、鼻出血と脳出血はあまり関係がない。鼻出血を頻回に繰り返すと(毎日の鼻出血が2週間以上続くなど)貧血になることがあるが、それでも死に直結することはない。だから逆に鼻出血の処置で重度の後遺症を残すことは避けなければならない。

鼻出血の処置で困るのは、処置が出血を誘発することがあることだ。出血が治っている患者に処置を開始し、再出血が始まると、出血が止まらないまま処置を終えるのは非常に勇気がいることだ。どうしても深追いすることになる。

局所麻酔下の処置や手術で重要なことは、患者が痛みを訴えたら先に進むのを控えるということだろう。術中・処置中の副損傷があると患者が痛みを訴えることが多い。痛みを訴えるということは、麻酔が充分でないか、麻酔範囲の外に影響が及んでいるということだ。局所麻酔は必要な範囲をカバーするようにおこなう。操作が範囲外に及んだということは不必要な範囲に及んだということで、周囲の臓器を損傷する可能性があるということだ。

麻酔が充分でない場合は、この患者のように脳出血を起こす可能性が高まる。術中の心不全や脳出血・脳梗塞は防ぎきれないものであり、多数の手術をおこない続ければいつかは遭遇すると考えられる恐ろしい合併症であるが、疼痛があって血圧が上昇すれば、当然発症の確率は上がる。この患者の場合、激しい痛みがあるにもかかわらず処置を継続したことが脳出血の引き金になったと考えるのだ妥当だろう。裁判の争点のひとつに血圧上昇作用のあるボスミンを高血圧のある患者に使用したのが妥当かどうかがあるようだが、問題はそこではない。最大の問題は痛みがあるのに処置を継続したことなのだ。脳出血の可能性を医師がどれだけ認識していたか、それを患者や家族にどれだけきちんと説明できたかも問題ではあろうが、それは副次的なことだと思う。