日経ビジネスオンラインの連載「記者の眼」に2018年2月15日付で掲載された「性転換手術が保険適応で考えた医療の意味」(http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/221102/021300563/)について書きたい。「病気の人が幸せになる方法は医療だけではない」という副題が付いている。記者は内海真希で、大学院で光合成の研究に携わった後に入社し、医療系を担当してきたという。

彼女は「性別適合手術の保険適用に反対しているわけではない」し、「トランスジェンダーの人々にとって治療の選択肢が増えることは歓迎すべきことだと思う」としているが、次のような懸念を述べる。

保険適用によって、当事者ではない人々の間で、トランスジェンダーは医学的にケアすればいいのであって、自分には関係ないという考え方、無関心が広がってしまうのではないかと、一抹の不安を感じている。

というのも、性同一性障害の人びとの悩みは、身体の外観を手術によって心の性別に一致させれば解決されるというものではないからだ。

そもそもトランスジェンダーの人すべてが、身体の性別を心の性別に一致させたいと思うわけではない。身体にメスを入れる適合手術は、健康被害のリスクも伴う。さらに言えば、「性的マイノリティー」にはレズビアンやゲイなどの異性愛者も含まれる。性の認識に、明確な境界線は存在しない。

それだけではない。彼女が「トランスジェンダーの人々が感じる精神的苦痛・苦悩の一部は、社会通念、いわば個々人の価値観の集合体が作り出したものだ」と言うように、苦悩の原因は自分の中にもあり、家族の中にもある。外見だけ一致させても、自分が長い間抱えてきた苦しみや家族との葛藤が消え去るわけではない。

さらに私は性同一性障害が本当の意味での「障害」であるのかどうか、疑問に思っている。「世界保健機関(WHO)が作成した国際的な疾病分類では精神および行動の障害の1つに位置付けられる」とあるが、WHO国際疾病分類であるICD-10では「成人の人格及び行動の障害」の中の「F64x 性同一性障害」に分類され、米国精神医学会のDSM-5では「XIV. Gender Dysphoria 性別違和」に分類されている。だが、彼らが感じているのは性別に対する違和感ではなく「性別役割」に対する違和感ではないだろうか。たとえば、スカートを穿きたい、化粧をしたい、と思う男性は、女性になりたいのではなく、「社会から女性の振る舞いとされている」ことをしたいだけではないのか。また、男性を好きになる男性と、太った女性や高齢の女性を好きになる男性と、どこが違うのだろうか。そのような違いを「病気」として良いのだろうか。