私が感じる経済学数学の根拠の薄さを、筆者らも別の意味で感じているらしい。神経科学と経済学との類似性を指摘した文に続いて、著者らは次のように述べている。

[経済学が実証の根拠を経済データのみならず、神経科学の実験データやfMRIの画像データまでに広げていくと]神経科学の発展の結果、選択肢の評価基準を効用関数として一元化して考えてきた伝統的経済学の発想を、まったくもって生理学的根拠を欠く空想の産物として忘却の彼方へ押し流してしまう可能性もある。(135ページ)

著者らは、行動経済学の立場から、経済活動における感情の役割を重視している。彼らが対象としているのは、合理的に動くホモ・エコノミクスではなく、酒に溺れたり、ギャンブルで身を持ち崩したり、禁煙に失敗したりする人間なのだ。著者らは「感情が生得的であり、感情反応が自然淘汰によって遺伝的に埋め込まれてきたものである」とするカートライトの考えを紹介している(12ページ)。

感情が理性よりも先立つ[場合がある]。このように考えるならば、我々は、従来の経済学が経済行動における感情の果たす役割を無視してきた報いを受けているのだと言えよう。(13ページ)

著者らは、「人間の脳は長い進化論的な過程の中で発達してきたわけであり、脳の異なる部位では、異なる行動原理が働くとしても不思議ではない(14ページ)」として、脳内の異なる場所に埋め込まれている行動原理が葛藤することにより、人間は時に非合理的な行動をとるのだろうと考えている。これは脳科学の分野でほぼ実証されていることだろう。行動経済学を創始したカーネマンは認知科学の分野に踏み込んで研究を発展させたが、著者らは認知科学にあまり深く関わらなかったようだ。

著者の中に医学部出身の者がいることで、医療に関する指摘は現状を踏まえたものが多い。リスクは経済学一般でも重要なものだが、著者らは特に医療におけるリスクについて、次のように述べている。

一般人やマスコミの論調などを見て感じる、最も大きな誤解は、この種の事故に対する備えが、100%の万全を目指せば、それが叶うかのような議論が多すぎるという点である。例えば地震に備えるための設備がある程度整備されていることが必要なことは当然であるが、いくら多くの防災のための投資をしても、思いもかけない大きな地震が来る可能性がある。また交通事故を防ぐための道路の整備や信号機の設置も、ある程度までは必要であるが、これを十分に設置したからといって、100%事故を防ぐことはできない。(36ページから37ページ)

同様のことは原発事故についても、ITセキュリティについても言えることだ。原発事故を100%防ぐことはできない。これを認めないのは嘘をつき騙そうとする態度だ。また100%のITセキュリティはない。個人情報を預ける場合、それが漏洩する可能性を見込んで準備しておかねばならない。ところが現実は、「完全な安全を目指すので、万が一の場合に対策は後回し」になっている。ネットバンキングの際にも、システムに侵入があった場合に備えてユーザ側が取るべき対策は充分に告知されていない。原発周辺住民の避難計画は、まったくなかったり、あってもおざなりだったりしている。日本社会全体の質の問題だろう。

医師から、病気の治癒や治療の成功について確率で説明されることの意味合いについても正しい指摘がある。

医療提供者の側からすれば、多くの患者を相手にしているのだから、これらの確率数値は大きな意味を持ち、技術進歩などによる治療効果を実感しているのであろうが、大部分の場合、1回きりの経験をする患者からすれば「自分が助かるのかどうか」だけが関心事であり、いかに医療従事者が患者に対していかに正確に情報を提供しても、適切に受けとめられないことも少なくない。(39ページ、原文のまま)

そして、医療不信の背後には「悲しい(grief)事態が起きたとき、その悲しいという状態に対するケアサービスを提供することが社会的に望ましい」のであるのに、「このような配慮が足りない」ことがあるとしている(40ページ)。

さらに、「医師患者関係も、判断を間違うことのない医師が判断を間違う患者に正しい判断を教えるというよりは、犯しやすいミスに共に気をつけながら判断を行うという関係が現実的(148ページ)」であるとし、リスクの大きい外科系診療科に進む医師が減少している現状に対しては、リスクの低減策として「エキスパートレビュー」(専門家同士の審査)を提案している(149ページ)。

だが、前者については「パターナリズム」の否定(説明と同意の推進)や、医療安全への患者の参加(名前と生年月日を患者に言ってもらうなど)によりかなり以前から実施されていることであり、後者についても、カンファレンスや回診の充実という形で以前から試みられていることである。著者は臨床の現場から離れて久しいのかもしれない。