依田高典、後藤励、西村修造『行動健康経済学—人はなぜ判断を誤るのか』(日本評論社)を読了した。補章を含んだ本文が174ページという薄い本だ。著者らは京都大学で西村の主宰する研究室で研究をおこなった仲間のようだ。また後藤は医学部の出身であるという。この本は「経済セミナー」誌上の連載をまとめたものだとのことだが、「まえがき」の最後には次の言葉がある。

2009年3月14日、京都大学百周年時計台記念館で、西村が最終講義を行うにあたって、行動健康経済学研究の成果を分かりやすく皆様にお届けするものである。(ivページ)

最終講義と並行して準備された原稿なのだろう。そう思って読むと、いかにも最終講義といった内容である。行動健康経済学を俯瞰するというより、著者らの業績の紹介といったおもむきの内容である。

さらに付け加えれば、けっしてわかりやすいとは言えない。経済学の他の分野の専門家にもわかりやすくということなのだろうか。わかりにくさにはいくつかの要素がある。文法が複雑で修飾関係(文の中の言葉の繋がり具合)がわかりにくいというのも要素のひとつだが、この本にはそのようなわかりにくさはない。新しい単語が多いことと、議論が省略されていることがわかりにくさの原因だろう。たとえばニコチン依存と禁煙について論じた章には次のような文があった。

本研究では、被説明変数が禁煙継続の有無という離散変数となる。そのため、推定にはロジット・モデルを用いた。また同じ回答者に8回繰り返し質問することから、このデータを一種のパネル・データとして見なすことができる。そこで、観察されない個人属性を調整するために、ランダム・イフェクト分析を行った。(55ページ)

ロジット・モデルについては補章165ページに説明があるが、複雑な数式の羅列で、実際にその数式を筆算で展開して追っていかなければ本当にはわからない。さらにパネル・データ、ランダム・イフェクト分析についての説明はなく、「観察されない個人属性」が何を意味するのか、「調整」とはどういうことか、なぜランダム・イフェクト分析により観察されない個人属性が調整できるのかがわからない。

ただし、このように書いたからといって、私にはこの本にケチをつけるつもりは毛頭ない。面白いことも多く、得られるものも多い本だった。ミクロ経済学を学んだ者が読めば「なるほど」と感心するのだろう。私はむしろこのように考えをめぐらすことで、ものを書く身として自分の書いた文章がわかりにくいことはないかと反省し、また、読んだものを理解するためには自分に足りない知識は何で、何を学べばいいのかを知ろうとしているのだ。

だが実を言えば、この本で取り扱っているミクロ経済学自体に対しても、落ち着かない感情を持っている。この本では(ミクロ経済学でも)いろいろな数式が出てくる。それは皆「このような数式で表せると仮定する」ということで導入される。そして数式に実際の測定値を当てはめると、うまく現実の世界が説明できるので、その数式の妥当性が認められる。さらにその数式は、他の仮説を説明するために使われていく…というように経済学の論理は展開していく。だが私はその説明を読んでも「もともと仮定の上に成り立っている数式をあてはめても、それが説明したことになるのだろうか」と思ってしまう。「表せると仮定」した世界の数式を実世界に持ってきても役に立たないのではないかと思ってしまうのだ。

著者らは、最近の神経科学の手法に経済学との類似を見出している。

近年、[神経科学では]あらかじめ行動モデルを数理的に構築し、実験で得られた行動をうまく説明できるような内的な変数(たとえば予測報酬など)を推定し、さらにはその内的な変数と神経活動の関連を調べるという研究が行われている。
こうした方法は、効用という内的な変数を定義して、行動をうまく説明できるモデルを作るという経済学と同じような発想である。(134ページ)

ミクロ経済学の本を読んでも、ゲーム理論の本を読んでも、私が「ついていけない」と感じる原因はここにあった。量子力学のように仮定から出発しても、それが実験により厳密に検証されるならば納得がいくのだが、「うまく説明できる」では落ち着かない。たとえばAが増加するとBも増加するという関係があったとき、それをシミュレーションする関数は指数関数もあれば対数関数もある。多項式、双曲線、三角関数(の一部)でも説明できる。どの関数をどのような理由で選んだのかが明らかにされなければ納得がいかないのだ。私にとって数学は道具ではなく、考えそのものだからなのかもしれない。