拷問の禁止や廃止について、18世紀に盛んに議論がおこなわれ、ジェレミー・ベンサムは「刑罰の名において与えられる苦しみよりも、拷問の苦痛のほうが正当化できる場合がある(230ページ)」と結論していたそうだ。

最悪の場合でも拷問台に一度かけられれば(したがって拷問台にかけられることが分かるだけでほとんど必ず)すぐに答えたであろう質問に1、2ヵ月収監されていた後でやっと答えるのは、ちょうど、一瞬の痛みに耐えれば治ったはずの歯痛を1ヵ月抱えているのに似ている。(231ページ)

これはあくまでも対象者が答えを知っていることを仮定しての議論だ。ベンサムのことだから、特定の条件が満たされねばならないことを考慮の上の文章だろうと思うが、このような意見が公にされていたことは興味深い。著者は「投獄されることと鞭打たれることは質的にまったく違うものであるにも拘わらず、長期にわたる収監(独房監禁を含む)を「人道的な」刑罰とし、鞭打ちの刑を「非人間的」なものとするのは、まさに、苦しみを比較できるという考えからきている(231ページ)」としている。確かにそのとおりで、質の違う苦しみを比較することはできない。さらに言えば私の苦しみとあなたの苦しみを比較することもできない。しかし、現代の社会制度は、その比較できないものを強引に比較してしまうこと(たとえば苦痛を金銭に置き換えること)で成り立っているのではないだろうか。著者も次のように述べている。

功利主義の「快楽計算」が、現代の思想や実践の通文化的評価にとって重要なものになったことは、容易に理解できる。そして、その「快楽計算」の考え方は、本来、一律には測れないはずのものの、比較・考量を促していることになった。(232ページ)

また著者は、欧州諸国の植民地支配は「人間性に背く習慣や行為を廃止させた(232ページ)」としつつも、以下のように述べている。

しかし私は、ヨーロッパ人統治者が残虐だと考える習慣を非合法化しようとしたときに彼らの念頭にあったのは、現地人の苦しみではなく、自分たちが文明国の正義と博愛の基準と考えるものを被統治国の人々に課すこと — すなわち新しい国民サブジェクトを生みだすこと — だったと考えている。(233ページ)

残虐だと烙印を押された「非文化的な」慣習を捨てねばならない非統治者たちの苦悩は「人間らしくなるために必要な苦しみ」「無駄な苦しみではなく、目的を果たすための苦しみ」とされた。この本ではインドにおける鉤吊りの儀式が例として挙げられている。どのような儀式なのかはわからなかったが、体に鉤を引っ掛けるヒンズー教の苦行らしい。著者は次のように述べる。

パフォーマンスをおこなう本人が、痛みは感じないのだと断言していることは、この際、関係ない。これは宗教儀式なのだという抗弁も、同じである。このような「これは普通とは違うのだ」という主張は、受け入れがたい。質的に異なる種類の行為を「特殊なもの」として一括りにするのは、人間とは何かということにかんする特定の考えを冒瀆するものである。(235ページ)

著者がこのような宗教儀式を良くないと考える根拠はどこにあるのかが、私にはわからなかった。