阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2020年10月

(承前)
次の文に進もう。

しかしそれにくわえて、彼は(不可能性定理だけでなく、アローと彼の追随者たちが用いている枠組み全体という意味での)「アローの分析には、社会的順序によって示唆されるような結果をもたらすという観点から社会的あるいは集団的合理性」を理解しようとする誤った観念から生ずる根深い「混乱がつきまとっている」と論じている。(269ページ、第III部第8章)

この文でも主語「彼は」と述語「論じている」が泣き別れになっている。読者はこの長い文の文末まで結論を知ることができない。また、カギカッコ内の「社会的順序によって」から始まる句は、カギカッコの終わりを超え、次のカギカッコの先頭の「混乱」まで続く長い句だ。「社会的順序によって示唆されるような結果をもたらすという観点から社会的あるいは集団的合理性を理解しようとする誤った観念」という言葉もよくわからないが、カギカッコのつけ方が悪いのでさらにわからない文になっている。原文は次のようだ。

But in addition, he was arguing that there was a deep "confusion surrounding the Arrow analysis" (not just the impossibility theorem but the entire framework used by Arrow and his followers) which ensued from the mistaken idea of "social or collective rationality in terms of producing results indicated by a social ordering" (p. 263)

訳者は「アローの分析を取り巻く混乱」を「混乱がつきまとっている」と訳してしまったために、カギカッコがおかしくなってしまった。原文の引用符は原著からの引用であることを示すものだが、邦訳書からの引用ではないため、日本語でカギカッコでくくっても、引用されている原著から該当箇所を探すことは不可能だ。カギカッコはなくてもよい。わかりにくかった長い句は in terms of の訳の問題だ。term は「言葉」と訳されることが多いが、概念のまとまりや単位を表す語だ。だから in terms of の訳には「〜に換算して」という訳もある。この句は後で「誤った観念」だとされる。誤っている文を正しく訳すというのも変だが、この文はアローを批判する人たちの論点を要約したものだから、本来なら批判の論文を読まなければ正しくは理解できない。だが、ここではそこまで踏み込まない。次に試訳を挙げる。

しかしそれに加え、彼は次のように論じた。アローの(不可能性定理だけでなく、アローと彼に従う者たちが用いている枠組み全体の)分析を取り巻く根深い混乱があり、その混乱は「社会的順序で示されるような結果を生み出すことで社会的合理性や集団的合理性を説明する」という間違った考えに根ざしている、と。

「混乱」「合理性」という単語を繰り返すことで曖昧さを避けた。だが自分の試訳を読んでもまだわかりにくい。結局アローを批判する人たちの論点が理解できていないので、そこのところがわからないのだろう。翻訳文のわからなさは、原文の難しさ60%、翻訳文の悪さ40%といったところか。
(この項まだまだつづく)

(承前)
次の例に進む。

人は、何がなされるべきかを推論し、熟慮するとしたら、行うつもりのことを、やらないで終わるかもしれない。こうした失敗にはいくつかの原因が考えられる。(234ページ、第II部第6章)

この文は日本語としてわからない。「熟慮するとしたら」の後に読点とうてんがあるので、それが次の「行うつもり」にかかるのか、その後の「やらないで」にかかるのかが判然としない。

原文を見てみよう。

A person can fail to do what he would decide to do if he were to reason and reflect on what is to be done. There are two distinct types of failures of rationality. (p. 228)

原文では仮定法過去(would と were)が使われているので、その部分が現実に反する仮定だとすぐにわかる。また、failure は「失敗」ではなく、「できないこと」だ。「何をなすべきかについて論理的に判断し熟考する」というのが「合理性」で、その働きが結局は使われなかったことを指している。次に私の試訳を挙げる。

もし何をなすべきかについて論理的に判断し熟考していたならば「こうしよう」と思ったはずのことを、人はしないことがある。合理性がうまく働かないのには2つのタイプがある。

試訳では仮定であることを強調して訳し、カギカッコを使って文の構造をわかりやすくした。この文がわからなかったのは、翻訳のせいだと言える。次の文は脚注に現れたものだ。

もっぱら厳格な乳母に育てられた上流階級のイギリス人だけが、ある心理状態が思慮を欠いていると確信しさえすれば、人はまちがいなくその心理状態の発生を予防しうる、ということを信じうる。(241ページ、第II部第6章 脚注21)

「〜確信しさえすれば」という部分の主語がイギリス人なのか、それにつづいて現れる「人」であるのかがわからない。これだけで翻訳文がわかりにくいと判断できる。原文は次のようになっている。

Only an upper-class Englishman properly brought up by a strict nanny can believe that if a person decides that some psychological attitude is not sensible, then it certainly can be prevented from ocurring. (p. 235)

原文では if節の後に then が補ってあって、文の構造をしっかりと示している。試訳ではこの部分をカギカッコに入れ、構造が明らかになるようにした。訳者は主語と述語を文頭と文末に分けて翻訳する傾向があり、それがわかりにくさを増長させている。試訳では主語と述語が隣り合うようにした。

「もし何らかの心理的な態度が賢明ではないと決めたら、そのような態度が取られることは絶対にない」などと信じることができるのは、厳しい乳母にしっかりと育てられた上流階級のイギリス人だけだ。

これはセンの冗談なのだろう。このような脚注は、訳しにくければ外してしまうことも考えていい。
(この項まだつづく)

(承前)
まず、翻訳文を見てみよう。

当然ながら、目標完備性は、囚人のジレンマの原因となる順序づけを否定することなしに、緩和されない。この意味で、目標完備性を緩和することもこの問題に対する不適切な解答とみなされなくてはならない。もちろん、このことは、ひとたび不完備性の可能性が許容されるとしたら、ゲーム理論のさまざまな前提を改定しなければならなくなるだろう、ということを否定するものではない。(216ページ、第II部第5章)

目標完備性は以下のように定義されている。

目標完備性(goal-completeness):あらゆるプレーヤーの目標はその結果状態の完備な順序づけ(complete ordering)および — 不確実性が除去できない場合には —〔結果〕状態に関するくじの完備な順序づけによる最大化の形式をとる。(212ページから213ページ)

「囚人のジレンマ」についてはウィキペディアに良い解説がある(https://ja.wikipedia.org/wiki/囚人のジレンマ)。

この文は、「囚人のジレンマ」が起こる原因を複数に分け、その対処法を述べている中で登場する文で、すぐ前の文で別の方法が却下されている。この文では2番目の方法(目標完備性の「緩和」)が論じられている。緩和というのは専門用語かもしれないが、「条件の緩和」という使い方はよくするが、「目標完備性の緩和」は座りが悪い。2番目の文は二重否定なので、読んでいて混乱する。原文を見よう。

Goal-completeness cannot, of course, be relaxed without denying the very orderings that generate the Prisoners' Dilemma, and in this sense, weakening goal-completeness must also be seen as an inadequate response to the problem. This does not, of course, deny that once the possibility of incompleteness is admitted, various game-theoretic presumptions may well need revison. (p. 211)

日本語では否定語が文末にくるので、二重否定は認知負荷が高まる。英語の「not ... without 〜」は「〜がかならず必要」と肯定で訳せる。2番目の文の「not deny」も肯定で訳すほうがわかりやすい。さらに、relaxは制限条件を緩やかにするという意味だから、「成り立たない場合もある(ことを認める)」という意味になる。またincompletenessはcompletenessの反対語なので、これも完備性が成り立たない場合があるという意味だ。次に私の試訳を挙げる。

当然ながら、目標完備性が成り立たない場合を認めるには囚人のジレンマを生み出している順序づけそのものを否定する必要がある。そう考えれば、目標完備性が成り立たない場合を認めるというのも、問題の解決法としてふさわしくないとみなさねばならない。とはいってももちろん、目標完備性が成り立たない可能性があると認めることになれば、ゲーム理論のさまざまな前提を見直さねばならないだろう。

「目標完備性が成り立たない」という言葉自体がわかりにくいのはしかたない。結果の順序づけが完全ではない(つまり、いちばん良い結果を選ぶかどうかわからない)という意味なのだが、「完備」という言葉からはそのようなイメージが湧かない。私がこの翻訳文をわかりにくいと感じた原因は、「目標完備性」という語の語感から意味を取りにくかったことが半分、翻訳のまずさが半分だろう。
(この項さらにつづく)

経済学者は経済学の専門家であっても、かならずしも日本語の専門家ではない。英語を解し、経済学の専門用語をよく知っているから、かえって非標準的な日本語を使う可能性すらある。つまり、学者の話というものは、ただでさえわかりにくい可能性があるということだ。「日本人なら日本語ができるはず」という考え方は、プロのアナウンサー、落語家、作家、そして翻訳家といった「日本語でおまんまをいただいている」プロをばかにする考え方だ。

私は最近ドイツ語の論文を訳さねばならないことが何回かあった。大学時代に2年間もドイツ語を学んだはずなのに、まったく読めない。文法に関する知識は一応あり、動詞に接続法があることや形容詞に強変化と弱変化があることも覚えている。だが、接続法の活用は全く覚えていないし、形容詞の変化も覚えていない。要するに私の文法知識は目次のようなもので、項目だけで内容がすっぽり抜け落ちている。

Google翻訳がけっこういけると聞いたので試してみたが、日本語がひどくあまり役に立たない。自動翻訳文に手を入れるくらいなら(ほとんど全面的な書き換えになってしまうので)最初から自分で訳したほうがストレスが少ない。そこで考えたのがGoogle翻訳で英語に訳し、それをドイツ語の原文と対照しながら日本語に訳すという方法だ。英語はドイツ語と近い関係にあるので、英訳はかなり正確だとわかった。これならドイツ語の単語がわからなくてもいちいち辞書を引く手間が省ける。実際にやってみると翻訳の時間をかなり短縮することができた。

なぜこんな話を持ち出したかというと、『合理性と自由』の訳本は、英語があまり得意ではない学生や経済学者が原書と並べて読むものではないかと思ったからだ。山岡は、大学教授たちが自分の書いた参考書や解説書を売るために、原著の翻訳をわざと難しく読みにくくしているのではないかと疑う。私はそこまで思わないが、たしかに訳書があまりにも読みにくいため、解説書を読もうかという気になっている。意図されたものではないのだろうが、結果として山岡の疑うとおりになっていることは否めない。

私がこの本を読み進める中で、わからないと思った文章を取り上げ、なぜわからないのか、経済学の知識の問題か、あるいは翻訳の問題なのかを考えてみたい。
(この項つづく)

アマルティア・センの『合理性と自由』(勁草書房)の上巻を読み始めた。『#リパブリック』でサンスティーンがセンに言及しており、上野が『ケアの社会学』の中でセンの「潜在能力アプローチ」を用いたと述べている(『ケアの社会学』074ページ)ので、大著ではあるが読まざるを得ないだろうと手に取ったのだ。だが半分ほどまで読み終わった現在、読むのをやめようかと迷っている。私は、読み始めた本は最後まで読まないと気が済まないたちなので、途中で諦めた本は数少ない。その中の1冊が『ゲーム理論による社会科学の統合』という経済学の本だった。私はどうも経済学とは相性が悪いらしい。

この本を読んで難しいと感じる最大の理由は、専門用語が説明なしに出てくることだろう。「パレート最適」などという言葉は経済学をする人にとっては常識の範囲なのだろうから、それすら曖昧なまま(以前、他の本で説明を読んだが、よく覚えていない)ノーベル賞受賞者の主要論文集にとりかかろうというのが、そもそも甘いのかもしれない。だが、不完備性、許容関数、選択汎関数、弱公理、強独立性などの用語が次つぎと出てくると、経済学辞典を横に置くか、入門書を2、3冊読み終わった後でないと内容を理解することは難しいと思えてきた。

もうひとつ、この本が難しいと感じる理由が、翻訳文の読みにくさだ。幸い、「INTERNET ARCHIVE」で公開されている原文(https://archive.org/details/rationalityfreed00amar)を見ることができた。そこで、わかりにくかった翻訳文の1つを原文と照らし合わせてみたい。まず翻訳文を示す。

ここでは、個人の選好概念および社会的選択の概念を含む社会的選択理論に移ろう。整合性条件はこのそれぞれに典型的に適用されるが、この二つのあいだには非対称性がある。そのひとつは、簡単な記述的用語で、「個人の選好」について語ることは可能だが、「社会の選好」についてはそれほど容易ではないという点である。個人が明瞭な選好の順序づけをもっている場合、個人の選択関数に関する内的対応性はさほどの問題なく内含関係(entailment relations)として得られる。他方、社会の選好をどうみなすかがあいまいであるために、社会について選択関数に関する内的対応性を導出することがより困難になる。(136ページ、第II部第3章)

この文では、最初の文の「および」が何をつないでいるのかがわかりにくい。だから、次の文で「このそれぞれ」「この二つ」が出てくると、どの2つを指しているのかを確認しなければならなくなる。さらに次の「そのひとつは」の「その」は前の2つではなく、いくつかある非対称性のうちの「ひとつ」なのだということを意識しなければならない。日本語では「非対称性」が複数かどうかわからないので、これもやっかいだ。そして「簡単な記述的用語で」の修飾関係がわかりにくい。「社会の選好」には「語ることが可能」という言葉が省略されているので、「簡単な記述的用語で」がどちらにもかかるということは意識して読み取らねばならない。私にとっては「内的対応性」や「内含関係」は正確な意味がわからない言葉なのだが、これは私の知識不足なのだろう。
次に原文を見てみよう。

I turn now to social choice theory, which involves the notion of individual preference as well as that of social choice. Consistency conditions are typically applied to each, but there is some asymmetry between the two. For one thing, it is possible to talk about an "individual's preference" in simple descriptive terms in a way that is not so easy for the "society's prefernce." When individuals have clear preference orderings, the internal correspondences for the individual choice functions can be obtained as entailment relations without too much problem. On the other hand, ambiguities regarding what the society can be seen as preferring make it rather more difficult to deduce internal correspondences for choice funtions for the society.  (p. 211)

原文を読むと、指示語(代名詞など)とそれが指す名詞句とが非常に近いために、修飾関係が非常にわかりやすいことに気づく。そして「そのひとつは」はある意味で誤訳であることがわかる。次に私の試訳を挙げる。

次に社会選択理論に目を転じよう。個人の選好だけではなく社会の選好も関連してくる理論だ。一般的に、整合性条件がこの両方の選好に適用されるが、適用法には少し違いがある。たとえば、「個人的選好」は単純な記述的な言葉で語ることができるが「社会的選好」はそうはいかない。個人が明確な「選好の順序づけ」を持っている場合、その個人の選好関数との内的な対応づけを必然的関係として大きな問題なく得ることができる。その一方で、社会が何を選好しているとみなすかが曖昧であるため、社会の選好関数の内的な対応づけを推定することは、どちらかというと難しくなる。

センが提示する事例の卑近さと、本文の解説の読みにくさとが対照的だ。おそらくセンはそんなに難しいことを言っていない。やはり翻訳に難があると言えるのではないか。

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