阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2020年07月

黒木は、日本のマスコミの怠惰を示す例として、立花隆が「文藝春秋」誌に「田中角栄研究―その金脈と人脈」を発表したときの話を、立花の近著『知の旅は終わらない』から紹介している。

記事を発表したとき、真っ先に駆け付けたのは「ワシントン・ポスト」や「ニューズウィーク」など外国メディアで、日本の新聞記者の多くは「あんなことはオレたちは前からみんな知っていたんだ」とうそぶくだけだったと[立花は]書いている。

知っているのに報道しないことがどれだけ報道人の使命に反することであり「悪い」ことであるのか、彼らは考えたこともないのだろう。

黒木は、「大手メディアの記者の中にも、能力があり、やる気のある記者はかなりいる」とも書いているが、それは私も知っているつもりだ。彼らが力を発揮できないのは「第一にメディアの経営者の問題であり、第二に取材や記事の方向性を決める現場のデスクの問題である」が、記者クラブも問題が大きいと指摘している。記者クラブの害はよく指摘されているが、黒木は「消極的なメディア文化の温床になり、政治家との癒着の原因にもなる」と述べている。私も、記者クラブは政府から与えられた情報を垂れ流すという日本のマスコミの姿勢の元になっている制度であり、廃止すべきだと思う。

彼は次のように述べる。

最近は、新聞の発行部数が減り、テレビも視聴率が下がって斜陽産業だという嘆きをよく耳にする。しかし、それは国民が知りたいことを伝える努力をしていないことも一因だ。メディア各社は、望月記者やフリーランスの記者を冷笑するような自分たちの姿勢が、権力者をつけ上がらせ、読者からの信頼も失わせ、自分たちの価値を下げていることを認識すべきである。

なお、彼が大手メディアの(良いほうの)例外として実名をあげているジャーナリストは、東京新聞の望月衣塑子(映画『新聞記者』のモデル)、NHKの国谷裕子、元NHKで現在フリーの池上彰である。現在多くの問題を抱えるNHKだが、そこから2名が挙げられているのは偶然ではないだろう。国谷が「クローズアップ現代」から外され、池上がフリーとなっていることも偶然ではないかもしれない。

ニュースサイト「JBpress」で2020年7月28日に配信された「BBCの英首相会見で痛感、日本メディアの情けなさ」(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/61461)について書きたい。筆者は黒木亮で、紹介によれば1988年から英国に在住している作家とのことだ。大学法学部を卒業後カイロ・アメリカン大学大学院(中東研究科)に進み、その後銀行、証券会社、総合商社に23年あまり勤務して国際協調融資や航空機ファイナンスなどを手がけたという経歴を持つ。

記事は、BBCの記者が遠慮なく鋭い質問を次つぎとジョンソン英首相に突きつけ、それに首相が必死に答えている動画(https://www.youtube.com/watch?v=3rm45jiPrdw)の紹介から始まる。動画についての詳しい説明が記事にある。それを読んでから動画を見てみたが、ジョンソン首相の発言を遮りながらインタビューアが「何を間違えたか」と繰り返し尋ねると、話を自分のペースで進めようとしている首相だが、耳を真っ赤にしながら、間違いを認めつつも自分の主張を展開しているのがわかる。

このような、正面からぶつかり合う議論を今まで見たことがなかった。ジョンソンはやはり政治家で、なかなか尻尾をつかませないが、それでもはぐらかしやごまかしはなく、きちんとした論理に基づいて話をしている。インタビューアは、話が逸れそうになると、割って入って強引に話の筋を元に引き戻す。非常に印象的なインタビューだった。

黒木は、日本のマスコミがこのようなインタビューをおこなわないことに苛立ちを隠さない。

日本の政治家の記者会見やインタビューでは、政治家が訊かれたくない質問をするのは、記者クラブに属していないメディアの記者やフリーの記者だけと言っても過言ではない。記者クラブに所属している大手メディアのサラリーマン記者は、政治家のご機嫌を取り、時々、政治家からちょっとした情報をもらえれば、バッテンも付かず、結構な給料ももらえるという居心地のよい地位に安住し、真実を追求し、権力の暴走を阻止するという最も重要な役割を放棄している。

もちろん、日本のマスコミにも例外があることを黒木は実名を挙げて紹介している。だがそれらはあくまで「例外」でしかない。

とはいうものの、私はマスコミだけを責めるわけにはいかないと思っている。日本の政治家がいい加減であることは、ニュースに少し注目していればわかることだ。マスコミも質が低いが、政治家の質も目を覆いたくなるほど低い。そしてその政治家を選んでいるのは選挙民なのだから、選挙民自体のレベルが低いとしか言いようがない。つまりこれは日本の社会全体が抱える問題だということだ。

今日は、これまでの認識を踏まえて、現在私がどのように社会の動向を捉えているかについて書きたい。

経済活動と感染対策のバランス:経済活動も感染対策も、どちらも効果が出るのに時間がかかる。感染対策は1か月ほどかかるし、経済活動はさらに時間がかかるだろう。このように、制御(対策)と結果(効果)に時間がかかるものについて、短期的にバランスをとることは不可能だ。1年単位でならバランスを云々うんぬんできるかもしれない。ただし、現在は「バランスが大事」という掛け声だけで、どの位置でバランスをとり、そのためにどのような対策をとるのかがはっきりしていない。ただ単に状況に流されているように見える。友人からは日本総研が公表した「新型コロナ感染が再拡大、本当の脅威は何か?」(https://www.jri.co.jp/page.jsp?id=36737)を指摘され、日本は高齢者の切り捨てに舵を切ったのではないかとの示唆があったが、よくわからない。ただ、結果としてそうなる可能性はある。

私は経済活動の再開に反対ではない。このままの状態では大量の失業と倒産が発生し、それを補助金でカバーしようというのには無理がある。ただし、経済活動を再開すれば、当然感染者は増える。入院ベッドがいっぱいになれば、自粛ですべてを我慢していた人が感染したときに入院できなくなる。その人にとっては「遊びまわっていた者たちのせいで真面目に自粛していた自分が損をした」ということになるのだろう。だから事前に、そのような事態が起こりうることについてのオープンな議論をすることが必要だと思う。また、高齢者がかなりの数死ぬことになるだろう。私はそれがやむをえないことだと思っているが、それをオープンに議論せず、「若年・壮年者にとって新型コロナは脅威でない」「感染者が増えるのは心配ない」「日常生活を取り戻そう」などといって素知らぬ顔でその方向に誘導しようというのは人間として最低の態度だと思う。

東京オリンピック:冷静に考えれば、来年の開催が現実的でないことはすぐにわかると思う。気合いや想いだけで片付く話ではない。それを話題にしにくいのは、現実を直視したくない人びとが多いからだろう。太平洋戦争と同じで、敗戦が明らかになったら、敗戦に向けて対策を立て、損失の少ない負け方、有利な敗戦処理など、いろいろ計画を立てねばならないのに、「一億玉砕」しか出てこない。ただし、世界を見渡すと、そのようには動いていないと思える。中止を視野に入れ、莫大な損失をどのように埋めあわせるか、誰に負担させるかについて駆け引きの真っ最中に見える。誰が中止を言い出すかで、誰が負担するのかが変わってくるから、誰にどのように言わせるのかをめぐりIOCと日本国政府、東京都が暗闘しているというのが実態だろう。

安倍は「完全な形での開催」という言葉で、中止のための「出口」をすでに用意した。IOCも中止について言及するようになった。後は誰が言い出すかだけの問題だ。それまで日本のマスコミは問題を指摘しようとはしない。税金はどんどん注ぎ込まれていく。アスリートたちは踊らされる。負け戦に突き進む戦前の日本のように。私としては、中止を言い出せない背景は理解するものの、為政者は言い出す勇気を持つべきではないかと思っている。

今日は私が予想していることについて書いてみたいと思う。とはいっても、今後の予想を述べようというわけではない。むしろ私が覚悟していることを述べると言ったほうがいいかもしれない。予想は当たらないことが多い。覚悟というのは万が一の時のためのものも含むので、外れてくれたほうがありがたい場合もある。

医療機関の経営困難:COVID-19が長引くにつれ、医療機関の経営が苦しくなることが予想される。国がどこまでの補助を出すかが問題なのだが、MRICの投稿(http://medg.jp/mt/?p=9772)が要求する「前年度の診療報酬対比での収入減少額をそのまま医療機関に補償」のようなことは実行できるわけがないと思っている。ある程度の倒産はやむを得ないと国は考えるのではないか。私の老後の設計にも大きく関係することなのだが、かなり悲観的な未来を覚悟している。医療機関が減れば、医療を受けにくくなる。国民としてどの程度の医療を受けたいのか、どのようにすればそれが実現できるのかを本気になって考えるときが来ていると思う。

高齢者施設:介護施設を含む高齢者施設は面会を厳しく制限され、言葉は悪いが、一部はほぼ「姥捨山」状態になっているようだ。高齢者が感染することを徹底して防ぐという方針に、私は賛成できない。高齢者施設で、他の高齢者や職員のみと交流し、外出も面会もままならないのであれば、老後のQOLは著しく低下すると思う。私は将来老人ホームのような施設に入ろうかと思っていたが、外出や外食に制限があるようならば暮らしていけない。「感染は自然なこと」と国民が受け止めるまでこのような状態が続くのだろう。そのような受け止めができるようになるまで何年かかるかはわからないが、それまでに私が死んでしまう確率のほうが高い。

後遺症:最近やっと後遺症について報道されるようになったが、ヨーロッパでは4月の段階で後遺症の調査を開始しており、報道もされている。アジアと欧米でこれだけ感染率が異なるのだから、合併症も異なっているかもしれない。今後そのような調査が必要になると思う。だが、現在の日本の状態を見ると、とてもそのようなデータを集められる体制になっていない。日本は治療には熱心だが、調査や統計となるとあまり興味を示さないし、予算もつかない。これでは政策の検証もできず、将来のきちんとした計画など立てられない。

承前
PCR検査、抗体検査:PCR検査でも抗体検査でも、偽陰性と偽陽性が避けられない。ところが現在の議論はそれを無視した「非科学的」なものになっている。どちらの検査も改良されていくことだろうと思うが、偽陰性と偽陽性はなくならない。医療者がそのことをしっかりわきまえ、きちんと説明していくことが大切だと思うが、医療者もまた世論に流されているように思う。PCR陽性であっても感染していない可能性があり、陰性であっても感染している可能性がわずかにある。抗体検査についてはあまり当てにならないという論文もあり、参考にしかならないだろう。

ワクチン:さまざまな製造法があり、効果もまちまちのようだ。大量生産するには特殊な技術と設備が必要で、世界で大量生産できる工場は限られているという。費用の問題もあり、ワクチンが開発されたからといって、すぐに世界中で手に入るようになるわけではない。また、ワクチンの副作用にどのようなものがあるのかは、実際に使ってみないとわからない。そもそもワクチンによる抗体がどれほどの期間もつのかがわからない。過度な期待を持たずに注視している。

死亡:日本の重症化率や致死率が高いという指摘もあるが、検査数(分母)が少ないために率が高く出ているという説明は正しいだろう。検査数が増えるとどんどん感染者が見つかるというのは市中にそれだけ感染者がいたということだ。死亡者が高齢者に多いということも間違いないだろう。スウェーデンではロックアウトなどせず、国民は日常生活に近い生活を送ったが、死亡者はヨーロッパ圏内で突出しており、高齢者が非常に多い。スウェーデン人には、それを「仕方のないこと」と受け止めている人が多いように感じられる。人口構成に若干の変化が起きるほどの事態だ。

アジア諸国は感染者が少ないが、死亡するのはやはり高齢者が多い。このパンデミックがいつまで続くかわからないが、もしSARS-CoV-2と共存せざるを得ないなら、平均寿命はやや短くなるかもしれない。日本の平均寿命は、高齢者に胃瘻を作ってベッドに縛り付けて達成している面がある。それが「まともな」数値になれば、私としては良いことだと思う。

変異、弱毒化:ウィルスの変異株についてもいろいろ言われているが、確たる証拠はない。想像の域を出ないと思う。また、ウィルスが弱毒化しているのではないかという意見もあるが、よくわからない。希望的観測にすぎないのではないか。

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