阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2020年04月

「制度が変わっても人の心は変わらない」ことは内田も主張している。

10年前に実施した調査では、日本では個人達成志向性が強まったことで友達の数が減ってしまい、幸福感が低下していた。アメリカでは個人達成志向性が重視されるが、日本ではあまり評価されていない。(161ページ)

個人達成志向性が強まったのは、何らかの影響(圧力)によってであり、日本人が自然発生的にそのような方向に動いたのではなさそうなことがわかる。私はあまり意識しなかったが、個人達成を賛美するような風潮があったのだろう。

面白いのは、主観的な評価と生理的な反応が相反する場合があることが実際に調べられていることだ。

ある日本の大企業でデータを収集したところ、職場全体に独立的な雰囲気が広がれば、より公平で成果主義的な社風だと人々は理解し、安心して働くことができることが示された。また、協調性が高い人ほど長時間残業してしまったり、一体感を求めすぎてお互いを縛り合ってしまう側面があることも示された。(161ページから162ページ)

これだけ見ると、独立的な雰囲気が良いように思えるが、血液検査で「孤独感やストレス、人生に意味が見出せないなどの状態で生じる反応」を測定したところ、独立性よりむしろ協調性が反応を抑えていることがわかったのだ。

主観的なレベルでは独立性が働きやすさにつながっているのにもかかわらず、生理的には根強く協調性の効果があるのである。こうしたことからも、制度が変わってもなかなか文化や心は変わらないということが見えてくる。(162ページ)

彼女は最後にソーシャル・キャピタル(社会関係資本)に言及している。

ソーシャル・キャピタルとは、個人間のつながり、すなわち社会的ネットワークと、そこから生じる互酬性と信頼性の規範のことだ。(163ページ)

このブログでも何回か取り上げたが、ソーシャル・キャピタルが充実した社会では健康な人が増え、長生きになることが示されている。内田の調査によれば、水田農業の比率が高い社会ほど、人びとが集合活動に参加し、ある種の倫理観が構築されていくという。

人々のつながりは勝手にできるのではなく、[中略]集合活動にしても誰かが積極的に呼びかけないと廃れてしまう。つまり、コミュニティにおける倫理観や価値観の形成のためには、ある種のプロフェッショナルを育てていくことが大切だ。(164ページ)

たしかに、成功したコミュニティ運動の報告を読むと、かならずアクティブで魅力的なキーパーソンがいる。人口減少が進む日本では、今後農業の比重を高めていく必要があると私は考えている。そのような人を計画的に養成する必要があるのだろう。だが、誰がどうやって養成するのか、皆目見当がつかないのが正直なところだ。

内田はこれまで研究として「日本と北米の「幸福感」の比較を行ってきた(159ページ)」という。その結果は私が感じていたことと同じだった。研究者からデータの裏付けをもって言われると、やはりそうだったかと私は自信が持てた。

北米の人々の幸福感には「浮き浮き」した感じが大事であり、一つの成功がさらなる幸福を招くという上昇的な幸福感が強いことがわかっている。あることで一儲けしたらそれを元手に次々と新たな投資を行って、もっともっと幸せになりたいという意識が強い。(159ページ)

シリコンバレーのベンチャー企業を見ていると、まさにそれを実感する。起業した人たちは自分の会社を商品としてしか見ていない人が多い。会社や仕事への愛着より、いかに会社の価値を高め、高く買い取らせるかを目標にしている人が多いのだ。内田が言うように「資本主義ととても相性の良い幸福感」だ。

一方、日本の社会では「穏やかさ」が重要だ。幸せすぎると何だか怖いと言い出す人がいる。私自身もそうだが、人生で良いことが続くと、そろそろ何か悪いことが起きるのではないかと不安になったりする。そのため、生活の中で良いことと悪いことがそれなりにバランスをもって存在していることが重視される。また、周囲から突出するよりは、人並みであることを重要だと考えている人もいる。これらは日本人の価値観と深く結びついた考え方だ。(159ページ)

安直な日本人論には警戒しなければならない。占いと同じで、もっともらしいことを言われると「たしかにそうかもしれない」と思ってしまう。だが、内田の発言は長年の研究に基づいたものであり、信用できるだろう。彼女の論文の原典に当たったわけではないが、論文等のリストは京都大学「こころの未来研究センター」内のページ(http://kokoro.kyoto-u.ac.jp/staff/yukiko-uchida/)で見ることができる。

内田はこれら2種類の幸福感を「獲得系幸福」と「協調系幸福」と名付けている。彼女は日本的価値観をベースに協調系幸福の尺度を作成したが、「他の国で実施しても妥当な結果が得られる(161ページ)」という。

協調系幸福獲得系幸福
  • 自分だけでなく、身近なまわりの人も楽しい気持ちでいると思う
  • 大切な人を幸せにしていると思う
  • 変凡だが安定した日々を過ごしている
  • 私の生活環境は素晴らしいものである。
  • 大体において、私の人生は理想に近いものである。
  • これまで私は望んだものは手に入れてきた。
人並み・協調的幸福
(Hitokoto & Uchida, 2015)
人生の満足感尺度
(Diener et al., 1985)
図表3 日本と北米の幸福感比較(160ページ)

幸福というと獲得系幸福のことを指すことが多いように感じられるが、協調系幸福も日本人に限らずすべての人びとが持つ普遍的な感情なのだろう。

討論の前には、社会心理学・文化心理学を専門とする内田由紀子が、話題提供として「日本社会における資本主義と倫理」を講演している。面白い指摘が多かった。

講演の中でも幸福感が取り上げられていたが、幸福感の尺度はさまざまであるのに対し、研究ではアメリカの大学生を対象としたものが多く、アメリカの若者の価値観が影響を与えてしまっていると指摘する。余談だが、アメリカの大学生のことを「WEIRD」と呼ぶそうで、これは「西洋の(Western)、高い教育を受けた(Educated)、産業化社会における(Industrialized)、経済的に豊かで(Rich)、民主主義的な(Democratic)な人たち」(153ページ)の頭文字なのだが、weired自体には「変な」とか「気味の悪い」といった意味がある。

心理学は人間の心の研究であるにもかかわらず、特殊な一部の人々(WEIRDの人たち)のデータだけを分析し、それをあたかも普遍的な心理として発表してきた。(153ページから154ページ)

たとえ米国以外の国の住民を対象とした調査であっても、質問票を作るのが米国人で、それを解析して意味づけするもの米国人というのでは、本来なら米国の価値観を中心とした世界でしか通用しないはずの研究になってしまう。

また、何でもすぐランキングにすることの問題も指摘している。サン=テグジュペリ『星の王子さま』の「大人は数字が好き」という言葉*を思い出した。

資本主義化した世界では、認知的な節約のために何でもランキングしようとする。対象について、実力や評判をあれこれ調べたり、聞いて回らなくても、ランキング一本見ればすべて分かった気分になれる、認知的には便利で楽をさせてくれるシステムだ。(155ページ)

もちろんランキングにより捨て去られてしまう部分も多い。さらにランキングを上げようとして本質から外れた、場合によってはかえって有害な努力をしてしまうことすらある。彼女は「資本主義化した世界」とわざわざ断っているが、ランキングは昔からあった。人間はふだんシステム1で動いており、認知負荷を減らすことは重要なのだ。

157ページに主観的幸福感と一人あたりGDPとの相関を示した図があるが、あまり相関がないことがわかる。GDPが高い国ぐにの主観的幸福感はみな高いが、GDPが低い国はさまざまである。面白いのはラテンアメリカ諸国で、GDPが低いのに主観的幸福感はどの国も日本より高い。幸福というのは、かなりの程度生き方や考え方の問題なのだということがわかる。

サン=テグジュペリ『星の王子さま』(新潮文庫)23ページ

講演3は「資本主義経済をつくる」で、溝端佐登史が、ロシアをはじめとする社会主義諸国の体制転換30年を振り返っている。

この社会主義から資本主義への体制転換は大きな社会実験となったが、その結果は決して満足できるものではなかった。

しかし想定されたフェアな形では、資本家や経営者、労働者は誕生しなかった。つまり、誰にでも等しいチャンスがあったわけではなく、「フライング」や不正を押しとどめることはできなかった。人的ネットワークを利用して、市場経済への移行以前から「政治資産」の「経済資産化」が始まっていたのである。権力にアクセスできる者は自分の権力・才覚を用いて国家資産を自分のものにするという略奪・払い下げが始まったのである。努力して蓄財した人が資本家となり、それがかなわなかった人が労働者になるという構図はもはや神話にすぎない。現実をリードしたのは、早い者勝ちと略奪の手を利用した資本家・経営者であったためである。(122ページ)

これは多くの人が実感したことだろう。民族対立が激化した国もあったし、周辺国との経済格差に悩んだ国もある。だが、どの国も1990年代の後半以降、右肩上がりで成長を続けており、唯一の例外はウクライナだという。

[ウクライナは]現在でも市場経済以降以前の50%程度の水準であえいでいる。ウクライナを除けばすべての移行諸国は転換以前の社会主義時代の水準をほぼ回復・凌駕しているといっていいだろう。(127ページ)

このシンポジウムが開催されたのが2018年10月、ロシアがウクライナ南部クリミア半島を併合したのが2014年3月だから、まだロシアとの紛争の影響が残っているのだろうか。

この移行から得られる教訓として、溝端は政府の移行に失敗したことを挙げる。彼は「政府は過度に退出するか過度に干渉するかの行動をとり、信頼できる政府は作られなかった(136ページから137ページ)」と述べる。その理由は社会主義時代の影響を引きずったことである。

具体的には官僚機構の非効率性や執行能力の弱さ、市民のモニタリング能力の脆弱さなどがそれにあたり、公益を刺激しない公務員自体の職務への動機づけもそれに含められる。(137ページ)

さらに「形成された市場の質」も低く、汚職により市場における取引コストが高止まりした。こういった事態が発生したのは、社会制度が変わっても、人びとの価値観や社会的規範がそのままだったからだ。旧制度に慣れ親しんで暮らしてきた人びとが、新制度になっていっせいに暮らし方や考え方を変えられるわけがない。体制を転換するには「いかにしてその担い手・主体」をつくるかが重要としているが、そのとおりだ。相手は生身の人間なのであるから体制だけ変えてそれでおしまいとはならない。

資本主義経済をリベラル型と調整型に分類するとすれば、「移行国は多かれ少なかれ調整的」であり、「遺制を基盤にして特殊な資本主義を作り出して」おり、「世界経済危機以降の国家介入の強まりのなかで、とくに中国、ロシアを対象として国家資本主義へとその呼び名が変わっている」(141ページ)。

先進諸国におけるトランプ現象やブレグジットに代表的なポピュリズム現象、経済制裁に代表的な政治による経済への介入を考慮すれば、国家資本主義は世界的な共通傾向とも読むことができる。(142ページ)。

資本主義は独裁体制と親和性が高いというのは指摘としてときどき聞くことがある。国家資本主義はある意味で資本主義の進化の方向なのかもしれないし、「理知的」に発展してきた社会の「情念」からの揺り戻しなのかもしれない。

講演2は「社会を支える農業・農村」で、当時福島大学に食農学類を立ち上げる準備をしていた生源寺眞一が担当している(同学類は2019年4月開設)。彼は農業経済学を専門としている。

食料自給率の低さが問題とされることが多いが、前半の食料自給率と食料自給力の話が知識の整理に役立った。食料自給率は国内で消費された食料を分母にし、そのうち国内で生産された食料を分子にした割り算で計算される。彼は昭和期の自給率低下について次のように分析している。

分子に当たる国内の食料生産は、それなりに伸びていたわけである[引用者注:農業生産指数によれば60年代前半の100に対して80年代後半には134]。にもかかわらず割り算の結果(=食料自給率)が低下したのであるから、分母が分子よりも早いスピードで増加していたとの推測が成り立つ。(72ページから73ページ)

生源寺によれば「昭和の時代に自給率が下がったのは、食べ方が大きく変わったから」で、米の消費が低下したことも「全体の自給率を下げる方向に作用している」のだそうだ。だが、自給率は高ければ良いというものではない。

2013年のデータだが、インドとバングラデシュでは穀物の自給率はそれぞれ111%、105%であり、100%を超えていた。けれども両国ともに栄養不足人口が国民全体の2割を占めている。十分に食べることができない中での自給率100%なのである。(75ページ)

彼は「自給率には、これ以上であれば大丈夫という境界値がないといってよい」としている。だが「食料の絶対的なカロリー供給力がどの程度であるかという議論には意味がある(76ページ)」とし、それを「食料自給力指標」と呼んでいる。

私たちの現在の食生活に近いパターンで、国内の利用可能な農地で作物を最大限まで増産した場合、[中略]直近の数値では1400キロカロリー/日・人を少し上回る程度である。私たちは1日当たり2000キロカロリーが必要だから、かりに海外から食料が入ってこない状況になれば、現在の人口の3分の2しか生きていけない計算になる。これが日本の食料自給力である。(76ページ)

この試算では「農地を耕す人が十分に存在することが前提になっている」ので、実際の自給力はずっと小さい。彼は、食料の安定供給は社会の安定に不可欠なので、保険としての食料安全保障が重要だとしている。しかしその一方で、保険にはモラル・ハザードがつきものだともいう。

もう30年以上前になるが、農村を熟知し、日本社会の構造にも一家言を持った玉城哲氏がご存命で、日本の食料自給率は100%にならないほうがよい、100%になった途端に何をやり出すか分からないと話されたことを記憶している。視野の広さに感心した。もっとも、現在のカロリー自給率は4割を切っている。100%にはほど遠い。(78ページ)

生源寺は、食品製造業には安定性もあり、「概して大儲けはできないが、地域に密着して雇用力を発揮する食の産業は、次代の日本社会を支える基盤の一つになると考えている」と述べるが、私も農業や食品製造業の雇用力の大きさには関心を持っている。発達障害があっても、人付き合いが苦手でも、農業や製造業では力を振るうことができる。食べ物は不要になることがない。コロナ後の、人口が減少し流通が低下した社会では、農業と食品製造業の重要性がますます高まるだろう。

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