阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2020年04月

医療

最近、病院や医院を受診する人が減っている。「病院は感染の危険がある場所」「不要不急の場合に行く場所ではない」という認識が広まったからだろう。COVID-19は日本人の受療行動を確実に変えている。この状態が長く続けば、この行動パターンは固定するだろう。複数の調査が実施されているが「プラメド」の内科医アンケートによれば3月は10%減、大阪府保険医協会が4月上旬におこなった医療機関対象の緊急アンケートによれば「患者減の診療所8割、20%以上減6割」(https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/all/report/t344/202004/565248.html)だという。私の知人の開業医に聞いても、患者が減ったという。以前の半分だという医院もあれば、3割しか来ないという医院もある。非常勤医師の雇い止めも起こっている。この状況が長引けば、病院や医院の経営が難しくなる可能性は高い。すでに診療報酬の度重なる抑制と消費税の増税で、多くの病院は赤字に転落していたのだ。今回のCOVID-19はそれに追い打ちをかける。

診療報酬は今年4月に改定されたばかりで、次の改定予定は2022年だ。次回の改定が今回の改定の方向性の単なる延長線上のものになることはないだろう。日本の医療供給構造を大きく変えるものになる。日本医師会が開業医の利益団体としてどこまで食い下がるかわからないが、受療行動の変化に基づく改定であれば、抵抗するのにも限界があるだろう。また、変わってしまった受療行動を元に戻すのには非常に長い時間がかかる。

つい最近まで、医療職は「食いっぱぐれがない」職業だと思われてきた。また、同時に3K(キツイ、キタナイ、キケン)とも言われてきたのだが、根強い人気があった。いずれ人口の6、7割が感染して集団免疫が成立すれば、新型コロナウィルス感染に対する恐怖はなくなるだろうが、医療職が危険な職業であることは人びとの頭に残るだろう。今回のCOVID-19で離職した医療者も多い。今後、医療職を目指す人が減るかもしれない。少なくとも「学校の成績がいいから医学部へ」という人は減るだろう。医学部の偏差値が下がり、本当に医療職を目指す人が医学部に入りやすくなるなら、それはとても良いことだ。

ワクチンの効果が100%であることはあり得ない。ワクチンが開発されても、一定程度の人は感染するだろう。感染すれば、統計的に見て高齢者ほど死亡率が高くなる。おそらく世界の平均寿命はすこし短くなるのではないだろうか。昔の平均寿命が短かったのは乳幼児死亡が多かったからだ。高齢者が死亡することで平均寿命が短くなるのであれば、それもそれで悪いことではない。

介護

介護の世界も変わらざるを得ないだろう。身体接触なしに介護することは難しい。また高齢者施設で一切の面会を禁じ続けるというのも現実的ではない。施設に入っても面会が禁止されるというのでは、監禁と同じ扱いだし、昔の「姥捨山」と変わらない。当面は危機対応として許されるかもしれないが、長引けば人権問題だと思う。どこかで、感染のリスクを踏まえた上で通常の状態に戻すしかないだろう。施設に入った人は、そこで人生を終える覚悟でいるのが普通だ。そうであれば、その最後の期間を、誰にも会わずに過ごして長くするより、短くなったとしてもきちんとした社会的繋がりを維持して暮らしたいと思うのではないだろうか。

個人・小企業

飲食店を代表とする個人の商店や企業は、体力があれば生き残れるが、廃業するところが多いだろう。すでに廃業しているところもあるが、現在再開の機会を狙って耐えている企業もこのまま第2波、第3波と続けば、機会を見つけられないまま、あるいは再開、再休業を繰り返すうちに、体力を消耗し尽くしてしまうのではないかと予想するのだ。テイクアウトと出前は需要が維持されるだろうから、レストランや酒場などは営業形態を変更できれば生き残れる。だが、衣料品や雑貨の店は相当苦戦を強いられるだろう。何らかの補助や援助を含めて、運転資金が続くことを願っている。

廃業する店舗が多くなると、家賃収入が途絶えた大家も破綻する可能性があり、あまり大規模になると金融機関の経営にも影響が出るのかもしれないが、この辺の事情について私は無知である。

一部の酒場やレストランは、国や地方自治体の自粛要請を無視する形で営業を再開するかもしれない。クラスターが発生する可能性もあるのだが、おそらくすでにかなりの不顕性感染者がいるので、そのような人たちが固定客として利用してクラスターを出さない可能性も考えられる。現在のところ日本で不顕性感染者を見つける方法はないが、そのような人たちは実際に集団で飲み食いしても感染しない。

中・大企業

経済活動の停滞とオリンピックの中止により、大企業でも倒産する会社があるだろうと予想される。残った会社の働き方は大きく変わらざるを得ない。営業職は従来の「足で稼ぐ営業」ができなくなるという指摘もある(https://active.nikkeibp.co.jp/atclact/activesp/16b/111900311/)。もっぱら遠隔での商談になるので、以前にも増して説得力のある資料作りが重要になり、「付き合い上手」といった人間的な持ち味が発揮できる場合が減ってしまうだろう。従来の経験は部分的にしか役立たず、新しいノウハウを手探りで見つけていかねばならない。営業職にとっては辛い日々だろう。

生き残った企業にとって一番の問題が新人教育だ。遠隔でどこまでの教育ができるのか、また、新人が会社への帰属意識を持てるようになるのか、私は会社のような現場にいないので想像するしかない。しかし、新しい新人教育システムの結果が出るまでに数年かかることは容易に想像がつく。私のいる現場は、実際に人に接するのでなければ業務にならない現場であり、新人と一緒に取り組まなければ教育にならない。製造業など、私の職場に似た環境の職場では、ある程度の感染の発生を覚悟しつつ新人に対する教育をおこなっていかねばならないだろう。集団での研修は、数人の小集団でおこなわねばならないだろうと予想するので、指導者の確保も含め、体制の整備が必要だと思う。

企業の規模に関係なく言えることだが、会社が倒産したときの受け皿がないことも大きな問題だ。外食産業は壊滅的だろうし、建設業も活況を取り戻すのにかなり時間がかかると予想される。現在はあまり騒がれていないが、収入の道が断たれた人たちのサポートが、いずれ大きな問題になると思う。

「こんな生活がいつまで続くのだ」という悲鳴が聞こえてくる。私の答えは「2年」だ。外出を控え、手指の消毒をきちんとすれば感染することなしにウィルスが消えていってくれると思っている人がいるようだが、そのようなことはない。小此木潔が朝日新聞「論座」に寄せた記事「コロナ検査不足が医療危機を生んでいる」(https://webronza.asahi.com/business/articles/2020042000004.html)によれば、厚生労働省クラスター対策班の中心人物である押谷仁は2020年3月22日のNHKスペシャルで「すべての感染者を見つけなくても、クラスターさえ起きなければ、感染は広がらず、多くの感染連鎖は自然に消滅していくというウイルスです」と言っていたという。どうして感染が広がらないなどと言えるのか、医学者の発言とは思えない。現時点でのエビデンスなどあるはずもなく、無責任な妄言だ。

オリンピックが開催できないだろうと言う予想も含めて、1年程度のスパンの話はぼつぼつ聞こえてくるようになった。だが、こんな生活を1年も2年も続けられるのかといった話は聞こえてこない。私たちは生活し続けねばならないのだから、本当に重要なのは当面の対策ではなく、長期的な展望だ。

ここでは半年から数年後という長いスパンでの予想をしてみたい。この予想の前提となっているのは、感染の波が断続的に1年以上にわたって繰り返されるという「計算」だ。予想ではなく、データから計算したものだ。

学校

学校はどこかの時点で再開しなければならないだろう。小学生は集団に慣れることが重要だ。家にいて遠隔授業をしても、集団適応能力は育たない。中学生においても友人との付き合い方を学ぶことは重要だ。小学校、中学校、高等学校とも、ある程度感染者が出ることを前提にして、マスク着用と手指消毒を徹底させて再開させるしかないのではないかと思う。場合によっては短縮授業とし、体育、道徳、国語、理科実験、ホームルームなど、議論や意見交換、実地体験などを必要とする科目を優先させ、後は遠隔授業か家庭学習とすることも考えられる。

大学や専門学校の場合、遠隔授業で単位を与えることのできる科目もあるだろうが、実験や実習の単位は与えられない。教室の窓を開けることで換気はできるかもしれないが、教室に収容する人数を絞ることは難しい。2部制に移行し、半分ずつ授業することも考えられるが、教職員の確保に難渋するだろう。1回の授業を2回に分けるなら、単純計算で教員の授業時間は2倍になる。こちらもマスク着用と手指消毒を徹底させ、ある程度感染者が出ることを前提にして再開させるしかないだろう。

もし、授業を再開しないと、単位が認定できず卒業できない学生が大量に発生する可能性がある。そうすると翌年の入学定員にも影響が及び、学校の経済状況に直接打撃を与えることになる。国家試験がある職種に関しては、国家試験の延期(半年程度)が必要となるだろう。それと連動して、卒業を秋に延期するということも考えられる。だがその場合、延期した期間の授業料をどうするかが大きな問題となる。現在、学生のアルバイトは減少しており、授業料や生活費をアルバイトに頼っている学生は苦境に立たされている。未来を支える若者たちに対する国の援助が必須だ。

新型コロナウィルス感染(COVID-19)が簡単には終息しないという発言が、少しづつではあるが増えてきた。好ましいことだと思う。しかしメディアが決まり文句のように「感染拡大が止まらない」と言うのは変わらないようだ。たしかに私はほとんどテレビを見ないので、メディア報道の現状に関する情報は限られている。とはいえ、感染がどうして拡大するのか、感染拡大をなぜ抑えようとするのか、いつになったら抑えなくて済むようになるのかに関する発言がきちんとされていれば、私のもとにも届くはずだと思う。それが届かないというのは、そのような発言が少ないからだろう。

以前のブログ記事の繰り返しになるが、感染拡大は簡単には終息しない。感染は、抗体を持っていない人に広がる。抗体を持っていない人というのは、つまり感染したことのない人だ。だから、感染が広まり、抗体を持っている人が増えれば、感染拡大は止まる。ポツポツと感染者が出る程度になるのだ。それは少なくとも人口の6割から7割が感染したときだと言われている。日本政府は、PCR検査を頑なに抑制しているから、日本人のどのくらいが感染しているのかはわからない。山梨大学の島田眞路と荒神裕之が医療ポータルサイトの「m3」ですでに数万人規模の感染があるのではないかと推測しているが(https://www.m3.com/news/iryoishin/757231)、荒唐無稽な計算ではない。

COVID-19の今後の推移としては、新規感染者数の減少、一般生活活動の抑制の解除、感染者数の再増加、活動の再抑制という4つのフェーズを循環するものと予測される。この循環が終わる時期は、ワクチンや治療薬の開発時期によって大きく左右される。ワクチンと治療薬のことは後で述べることにして、もしワクチンや治療薬の開発が遅れれば、少なくとも人口の6割が感染するまで循環が続く。PCR検査は自治体によって実施数に大きな隔たりがあるように見えるが、東京都を例にとれば、実際の感染者が「広報されるPCR陽性者」の10倍いると考えても、「広報されるPCR陽性者」が80万人にならなければ循環は終了しない。これは、新規感染者数を抑え込み、医療崩壊を防げたとすると数年かかる数だ。

ワクチン開発は楽観視できない。コロナウィルス感染症でワクチンが開発できていないものも多い。また、免疫は1年程度しかもたない可能性が高く、その場合毎年ワクチンを接種しなければならないが、安定供給ができるまでそれなりの期間を要する。ワクチンの有効性、副作用も重要だ。インフルエンザのワクチンが効かないことは有名だし、どのワクチンにもかならず一定程度の副反応が生じる。

治療薬については副作用の問題があり、全国民に使用できるかどうかわからない。少なくともアビガンは催奇形性が疑われるため、妊婦には使えず、生殖年齢の人にも使いにくい。また、アビガンを大量に使用すれば耐性ウィルスが早晩出現するだろう。

パネル・ディスカッションで注目したことをいくつか述べておきたい。

ひとつは溝端の体制転換についての補足だ。

[体制の転換に対する]政策が有効に機能するためには、一つ条件が必要です。新旧の時代で、プレーヤーが入れ替わるかプレーヤーの価値観を取り換える必要があります。つまり、市場移行には、政策だけでなく、そのルールに即して行動する新たなプレーヤーも同時につくるというプロセスが必要なことを同時に考えておくべきでしたが、その点を真剣に考えて政策支援する者は誰もいませんでした。西側に想定されたような行動が市場においてとられなかったという点において、市場移行は、悲劇を、そして見方を変えれば喜劇をもたらしたのではないでしょうか。(178ページから179ページ)

これは、講演3について述べたところで併せて述べておくべきことだった。非常に重要な指摘だと思う。この本について書いた後で、ふたたびコロナ後の世界(正確にはCOVID-19で変貌した世界)について書きたいと思っているが、溝端の指摘は、コロナ後の変貌した世界を支えるプレーヤーをどう後押しするかにつながっている。

体制転換を経験した国々で最大の問題は、正当性を持った市場のプレーヤー(経営者)が登場してこないなかで、政策自体も信頼を失ったことです。新しく政策を作る官僚・公務員が、汚職や権力乱用により富の取得に狂奔し、自らの正統性の基盤をつぶしてしまい、社会の信頼を失ったわけです。(180ページ)

私たちはここから学ばなければならない。

内田が、米国の幸福感について述べている点も重要なことだと思った。内田は、不平等な米国で幸福度が高いのはなぜかと言う疑問に対し、いくつかの理由を挙げている。まず第一は指標自体に米国の価値が反映されている可能性だ。第二には、米国には「幸せでなければならない」という価値観があり、「実際よりももしかすると幸福度を高く回答する傾向があるかも(184ページ)」しれないことだ。

その一方で、逆に個人が現世的幸せを追求することはあまりよくないと考える文化もある。ブータンは「幸せな国」として知られていますが、実はそこで定義されている幸せとは快楽的な幸せではなく、もっと「足るを知る」的な意味での充足感です。これは獲得志向的な幸せで測定される幸福度とはずいぶん異なります。(184ページ)

また彼女が大学教育について、論文を一定のルールに従って上手に書く人だけを育ててしまっているのではないかという指摘も重要だと思った。

しかし、残念ながら、現状ではジャーナルに論文が載らないと、学問的な業績として評価されないとか研究費が出ないという難しさもあります。(185ページ)

100%完璧なシステムはありえない。そんなシステムにも欠陥がある。だがその欠陥を認識してそれを改善していこうという努力が大切だ。医学界を見ていると、その欠陥を改善するのではなく利用しようと画策する輩のほうが、特に大学教授において、若干多いような気がする。

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