阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2020年04月

この本の主題は、「法解釈はどのような意味を持つか」ということらしい。つまり、人は法文を読んでそれを解釈しなければならない。どのような根拠でその解釈が正しいと言え、またその解釈が強制力を持つことが許されるのか、といったことを問題としているようだ。

第1章は「法解釈とは何か」だ。大屋は、この本の副題にもあるように、根源的規範主義の立場をとっている。その立場とは「規則の適用はすべて直接的な規約である(6ページ)」とするものだとのことだ。彼はその立場を詳細に説明する前に他の立場を論破していくのだが、最初に取り上げられるのが「限定的規範主義」である。こちらの立場では法文に対する社会的合意と、法的判断の客観性あるいは必然性が前提とされるそうだ。

第1章ではそこから法的判断、つまり法律の解釈の客観性についての議論が始まる。そしてそのまま第1章が終わり、第2章「解釈とは何か」に続く。私は第1章を読みながら、限定的規範主義に対する最終的評価がいつおこなわれるのかと考えていたのだが、それなしに、今度は「解釈」の定義に入った。第1章の議論の結論がないまま、それを棚上げにするかたちでさらに深い議論になる。両方の主義について予備知識がある読者ならいいのかもしれないが、私には負担が大きかった。

第1章自体もわかりやすいとは言えなかった。この章ではヴィトゲンシュタインの『哲学探究』の中から「石工の言語」(この名前は大屋が付けたものらしい)が紹介されている(25ページ)。この言語は石工と助手の意思疎通に使うもので「台石」「柱石」「石板」「梁石」の4語からなる。石工がどれかを叫ぶと、助手が対応する石を持っていく。

大屋は、井上達夫の法理論を論破するためにこの例を持ち出している。井上の説を認めれば、この言語が原始的な法律になっているというのだ。確かに「石板!」という言葉は、助手が何をしなければならないかを表している。

ここで大屋は助手がロボットである場合を仮定する。その場合、この言葉は「しなければならない」という意味を失うと指摘する。さらに、「あらゆる言明にはその深層構造において遂行動詞(TELL, WARN, ASK...)・深層主格(I)・深層間接目的格(YOU)が存在している(27ページ)」とする「遂行分析」が紹介され、それによって井上説はさらに否定される。

だが、私はこの議論の進め方に賛成できない。まず、話し言葉と書き言葉は異なるレベルの現象だ。『プルーストとイカ』にあったように、読字障害の人は話し言葉はわかるが、字を読むことは難しい。脳内の回路が違うのだ。書いた文章である法律の解釈に、「石板!」のような簡単な音声言語の解釈を使うことはできない。音声言語の基層はおそらく本能だ。助手は「石板!」と言われれば、とっさに石板に手を伸ばす。解釈などない。そしてこの言葉は単なる命令にすぎない。

さらにロボットを相手にした場合、ロボットの言葉の理解は人間の理解とは異なる。ロボットの回路に「石板」という言葉を認識する機能を組み込んだのであれば、ロボットはその音のパターンを認識したので、「石板」という言葉を理解したのではない。「と言ったら石板を持ってくる」とプログラムすれば、「あ」と言えば石板を持ってくるが、「石板」と言ってもロボットは動かない。

また、「遂行分析」にしても、簡単な文であれば成り立ちそうにない。人間は直感と本能のレベルで言葉を認識していると考えられるからだ。

(承前)
ひとつ断っておかねばならないことがある。それは私が素人しろうととして述べているということだ。とはいえ、何を素人と言うかは難しい。医者は医学の「玄人くろうと」だと思われているが、同じ整形外科医でも、脊椎を扱っている医師にとっては手外科の医師は脊椎に関して素人だ。耳を扱う耳鼻科医は、腫瘍を扱う耳鼻科医から見れば腫瘍の素人だ。

私は法律に関しては大学の一般教養レベルの知識が中心で、哲学に関してはほとんど知識がない。友人には哲学に詳しい者がいて、フッサールやベルクソンについて話を聞くことがある。また、最近哲学関連の本を読むことが多いので、カント、ルソー、ハイデガーなどについて、断片的に知ることとなった。だが、体系的に学んだことも、哲学の本を通読したこともない。言語学は好きで、いろいろな本を読んでいるが、興味の中心は文法論なので、言語の獲得に関しては専門書を読んでおらず、やはり一般向けの解説書からの知識が中心になる。

だが、素人だからこその視点もあると思う。手前味噌にはなるが、哲学理論の詳細に踏み込むと、かえって本質から逸れた議論になる可能性があると思う。「誰々が言ったように」と引用すると、「いや、それはそういう意味ではない」と反論されたりして、本来の議論が置き去りにされてしまう。また、複数の領域にまたがった議論をする場合、自分の専門領域以外は結局「専門外=素人」からの視点で論じざるを得ない。そもそも私にとって重要なのは真実がどこにあるかであって、誰がどう言ったかではない。

この本ではヴィトゲンシュタインの著作が多く引用されている。彼はオーストリアのウィーンの出で、後にイギリス国籍を取得している。綴りは「Wittgenstein」で、ドイツ語読みをカタカナで表記すると「ヴィトゲンシュタイン」となるのだろうが、日本では「ウィトゲンシュタイン」と、「ウ」で始める表記をしているようだ。Wienを「ウィーン」と書くようなものか。

たとえばイタリアの都市Veneziaであれば、「ベネチア」「ヴェネツィア」など表記がさまざまで、特に「v」の音については表記が大きく揺れていることがわかる。問題は、検索の際に複数の表記があると全部を見つけることが困難になることだ。

話はそれるが、字体の統合でも同様な事態が生じる。田中角栄という政治家がいたが、戸籍上、名の第1字は「⻆」(ユニコード:U+2EC6)と、真ん中の棒が下に突き抜ける形だった。国会の名札はそのように書かれていた。だが普通、彼の名を表記するときは「角」(U+89D2)という常用漢字字体を使用する。そうでないと、特に電子データの場合、検索がうまくいかなくなってしまう。表記はできるだけ揃えるに越したことはない。

話を元に戻そう。私はヴィトゲンシュタインという音に馴染んでいる(著書を読んだことはないが名前だけはよく知っている)ので、このように表記することにしたい。「表記はできるだけ揃えるに越したことはない」と書いておいたそばからではあるが、「v」を「ウ」と書くのは私には気持ちが悪い。気になる場合は「ヴ」の濁点を読み飛ばしてほしい。

人がどのようにして言語を習得するのか、詳しいことはわかっていない。AIに言葉を教え込むことはできる。しかしAIは翻訳をこなし、おしゃべりの相手をするが、教わっていない聞いたこともない新しいことを言い出すことはない。ところが人間の子どもは、言葉を覚えると自分で内容を新たに作り出し、文法に沿って言葉を組み立てて、教わっていないことを喋り出す。

文法が苦手という人は多い。ところが、文法に従わない言葉を話す人はいない。意識されなくても文法は人の頭の中に存在している。それがどのように生成され、どのような形で存在しているのかはよくわからない。

私の子どもは、とても小さいとき、手をつなぐことを「てなつぐ」と言った。「てつなぐ(手繋ぐ)」の真ん中の2モーラ(モーラとは日本語の音節単位)が入れ替わっている言い間違いだ。そのうち、「つなぐ」というのがひとつの言葉だと学習し、「てなつなぐ」と言うようになった。余計な「な」は助詞のように聞こえた。手のことは「て」というのだと理解していたようなので、もしかしたら目的語(手)と動詞(繋ぐ)の間には助詞が入り得るという文法を獲得し始めていたのかもしれない。

言い間違いの研究から、語音が生成される仕組みについていろいろなことがわかってきているが、頭の中のイメージがどのように文にまとめられるのかについてはわからないことが多い。ただ、人の言語機能が年長になっても発達し続けることはわかっている。中等度難聴児では、言語は獲得されるものの、その後の言語情報が制限されるため、複雑な構文の獲得に困難が生じる。最近の日本人が複雑な文を理解できなくなっているのも、テレビなどの単純な会話体にしか接する機会がないからだろう。

人間の言語機能は、おそらく遺伝情報に組み込まれ本能的に働き出す基本的な部分と、後天的に訓練によって獲得される部分があるのだろう。それらの部分の境界は明確なものではないだろうと考えられる。この考えは、言語の獲得が、数学の認知や書き言葉の習得と同様のメカニズムでおこなわれているのだろうという推測に基づいている。『数学の認知科学』で示されていたように、人間の数学能力は、「少ない個数なら一目で把握できる」「2つのグループを一緒にすると数が増える」といった基本的な知覚能力を組み合わせ、それを応用することで作られていると考えられる。また『プルーストとイカ』に示されていたように、書き言葉は、言語中枢と図形を認識する部位とを後天的に繋ぐことによって習得される。さらに文字は、チャンギージーが示したように、自然の景色を元に作成され、自然を認識する脳機能が文字の認識にも使われている。

この本では、法文(法律の文章)を理解するのに、言語理解から説き起こしているが、言語理解の最深部にあるのは本能的な直感であり、法文の理解は人工的な理論の理解なのであって、お互いにかけ離れたものである。法文の理解は言語理解一般と切り離して考えねばならないだろう。

また法の論理は論理学の論理とも異なる。論理学はすべての要素(集合の元、演算など)を定義し、その上に組み立てられる。社会生活や人間の行動といった、定義不可能なものを扱うものではない。

議論を緻密に進めようと思うと、言語論や論理学を導入したくなるのだろうが、レベルの違う議論に踏み込むと、本質を見失う。
(この項つづく)

大屋雄裕『法解釈の言語哲学 — クリプキから根源的規範主義へ』(勁草書房)を読了した。読了したと言っても、表紙から表紙までを読んだということで、内容を理解したわけではない。前半は屁理屈を並べ立てたように感じ、退屈だった。後半に入り、非常に面白い議論が展開されたが、最後の4分の1は議論が混乱し、また前半の議論を受けた部分がよく理解できず(前半が理解できていないのだろうからしかたがない)、消化不良になった。だが、最後の部分から「おわりに」にかけては著者の正義を求める熱意がひしひしと伝わって来た。大屋は慶應大学法学部教授で、法哲学を専門としている。

私はやはり哲学とは相性が悪いようだ。端的に言って、哲学は現在の自然科学の知識を取り入れていない。19世紀から20世紀前半の思想体系の上に自分の思想を築き上げようとしており、それは現在の自然科学の知見とはかけ離れたものになっている。これは、昨年末に『〈現在〉という謎』を読んだときにも強く感じたことだし、『新記号論』の中で石田英敬と東浩紀が、理系と文系の統合として訴えていたことでもある。

『〈現在〉という謎』を読んだときに感じたと同じ感想をこの本を読んだときにも感じ、さらにそれが石田や東が訴えていたことと一連のものだと思えるということは、現代の哲学に共通した問題点がある可能性を示唆している。だが、この本から学んだことも、考えさせられたことも多い。

この本の問題点だと私が思ったのは、認知科学や言語理論の最新の知見を取り入れていないように感じられること、そしてさまざまな異なるレベルの議論を一緒くたにしているように見えることだ。

物事はどんどん詳しく分解していくと理解が深まるかといえば、そんなことはけっしてない。たとえば二酸化炭素は炭素と酸素からできているが、炭素と酸素の性質をいくら調べても、二酸化炭素の性質は見えてこない。また、人間の体を理解しようと細胞、核、遺伝子と突き詰めていっても、なぜ人が歌を歌えるのかははわからない。物事、つまり事象を理解するには、その事象が現れるレベルでの分析が必要であり、分析を不必要に低いレベル(より細かいレベル)に及ばせると、かえって事象の本質が見えなくなる。熱を理解するには分子レベルの分析が必要であり、人の心を理解するには私たちが生きて暮らしているレベルでの分析が必要なのだ。

とはいえ、この本の著者の意図もよくわかる気がする。法廷では屁理屈をこねる者同士がやり合うことも多いのだろう。そのような屁理屈に対し、それをやり込めるだけの理論が必要になる。そう考えると、この本で紹介されているわけのわからない屁理屈も、実務的には重要なものなのだろうと思えてくるのだ。

この本は著者の助手論文がもとになっている。助手論文に大幅な手直しをして専門誌『国家学会雑誌』に連載し、さらにそれに手を加えて単行本としたものだ。だから専門家向けに書かれたものであって、私のような素人がわかるようには書いていない。そのこともまた、文系の専門書がどのように書かれるのかを知るよい機会を私に与えてくれた。

新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)は人類に定着するのではないかという観測がある。SARSやMARSのように消滅してしまうのではなく、インフルエンザやロタウィルスのように、誰かが時にかかる感染症になるのではないかということだ。

ワクチンの開発には難渋する可能性があるが、治療薬はすでにアビガン(ファビピラビル)があり、他の抗ウィルス剤も遅かれ早かれ開発されるだろう。妊婦に安全な薬や小児に投与できる薬も開発される可能性は高い。その一方で、どの薬も予防的に投与できるわけではない。したがってSARS-CoV-2は、基本的に不顕性感染として広まり、散発的に症状を出す人がおり、そういった人を抗ウィルス剤で治療するというような状態になる。また、耐性ウィルスが現れれば、耐性ウィルス感染による有症状者への治療は、現在と同じ、対症療法ということになる。

免疫が1年ほどしかもたないのではないかという予想もある。そうであれば、人類への定着を阻止することはさらに難しい。一度かかって治った人でも1年後にはまたかかる可能性が出てくるからだ。

SARS-CoV-2がそのように人類に定着した状態での日本の暮らしを考えてみたい。生活は基本的に元どおりになるだろう。だが、インフルエンザより若干死亡率が高そうであることを考えると、人びとは交流に慎重になるだろうと思う。混雑を避けることは習慣になるだろう。在宅勤務の比率は上がり、満員電車の混雑も緩和されるのではないかと思う。隣の席の人と体が触れるような飲食店は無くなるかもしれない。

観光にも慎重になるだろうと思う。特に外国との往来が復活するのはしばらく後になるだろうし、検疫は厳重になるだろう。クルーズ船は復活できないかもしれない。

食料や生活必需品を輸入に頼ることが反省されるだろう。私はこの機会に農業の振興に力を入れることが重要だと考えている。『資本主義と倫理』でも農業の持つ力が主張されていたが、農業には労働力を吸収する力がある。今までの日本は土木建築により雇用を調整してきたが、建築は不安定だし、環境破壊にも繋がる。人口が減少し、土地が余ってゆく日本では、農業が有望だ。休耕地を減らし、場合によっては農地を広げて雇用を創出することが可能になる。国営の農場を作っても良いだろう。

農業への従事は、発達障害があっても可能である。人付き合いが苦手でも、あまり他人と交流せずに仕事をすることができる。生産性を重んじるのではなく、仕事をすることの充実感を味わうための場として、農業を捉えることができないだろうか。

『資本主義と倫理』で溝端佐登史は、社会が新しくなる際には「[新しい]ルールに即して行動する新たなプレーヤーも同時につくるというプロセスが必要」だと訴えていたが、コロナ後に生まれる新しい社会を予想し、そこで必要となる新たなプレーヤーを作ろうという発想が非常に重要だと考える。

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