阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2020年03月

カルロ・ロヴェッリ『時間は存在しない』(NHK出版)を読了した。ロヴェッリは理論物理学者だが、「訳者あとがき」で次のように紹介されている。

学生活動家として社会との接点を求め、9カ月の北米放浪の末に、物理学を通して社会と関わることを決意し、ループ量子重力理論を打ち立てて、科学哲学学会の会員として科学史を研究し、アメリカの雑誌でもっとも影響力の強い100人の一人に選ばれた(217ページ)

彼は物理学研究を推し進めるのは感情だとしているが、この本はまさに彼の「文系の」素養が詰め込まれた本だ。物理学の本であるのに数式はなく、東洋・西洋の古典からの引用が多数散りばめられている。

翻訳者の冨永星は京都大学理学部の数理科学系を卒業しているので数学には詳しいようだが、仏典やヒンドゥー聖典からの引用も自然に訳されており、非常に力のある翻訳者であると感じた。またサイエンスライターの吉田伸夫が翻訳のチェックに当たっており、それもこの本の信頼性を上げている。

題名は非常に刺激的だが、これはおそらく出版社の編集者が付けたもので、原題は「L'ordine del tempo」。これは「時間の順序」という意味なのだそうだ。つまり、時間には順序があるが、それがどうして生じているのかを説明しているのだ。だから時間は少なくとも議論の対象としては「存在している」ということになる。この本では時間はエントロピーと関連づけて説明されている。

第1部では、時間が物理学ではどのように扱われるかが説明されている。物理法則のどれをとっても、時間に関しては対象的である。つまり、時間を表す変数が負から正に動いても、正から負に動いても式は成り立つ。時間が過去から未来へと流れる必要はない。さらに、著者は量子論と重力理論の統合を研究としているが、著者が対象とする「ループ量子重力理論」の方程式には時間という変数がない(118ページ、122ページ)。

したがって、物理学の理論の中では、時間の流れ(あるいは過去・現在・未来の順序)は必要ない。それでは時間はどうして生まれるのかというと、私たちの知覚に曖昧さがあるからだという。

過去と未来が違うのは、ひとえにこの世界を見ているわたしたち自身の視界が曖昧だからである。(040ページ)

氷と水の境界は私たちの目には明らかだが、分子レベルで見ると境界はわからなくなる。氷の表面から飛び出す分子もあれば氷にくっつく分子もあり、時々刻々変化しているからだ。私たちに氷の表面が見えるのは、私たちに分子を見ることのできる解像度も持った目がないからに他ならない。熱い湯と、冷たい湯の違いも分子レベルではわからない。多数の分子を集めて運動速度の分布を見なければならない。統計的に見て分子がよく動いているほうが熱く、分子があまり動いていないほうが冷たい。水の温度がわかるのも、私たちの目の解像度が低いからだ。著者は時間も同じだという。

(承前)
ローティは究極の相対主義であるアイロニーの実践において、公共的なものと私的なものを統一しようとせず、自分の要求と社会をまとめるために必要とされる要求とを「互いに同等ではあるが永遠に共約不可能なものとみなすこと(232ページ)」が正しいあり方だと説いているそうだ。

来るべき社会の公的領域は、徹底した相対主義のもと、あらゆるタイプの正しさや美しさを受け入れるような、言い替えれば、いかなる正しさや美しさとも無関係な別種の原理のもとで運営されるような、価値中立的で脱理念的なものであるべきだと論じた。(233ページ)

そのような運営をおこなう基盤としては、人びとの日常の営みの中で交わされる情報にのみ基づき、人びとの積極的な関与には基づかない一般意志2.0が有用だろう。

ローティは、人間が集団を作るのは想像力があるからだとしている。次のように説明されているが、その発想はルソーの「憐れみ」にたしかに近い。

わたしたち人間は、決して見知らぬ他者への偏見をなくすことはできない。また、あらゆる人間に共通する本質を発見し、それを根拠に友愛を基礎づけることもできない。けれども、人間のもつ想像力は、目のまえの他者の苦しみへの共感を生み出し、さまざまな場面で「彼ら」を「われわれ」に変える役割を果たす。[中略]人間は理性によっては決して連帯できない(理念はすべて相対的であり熟議は決して終わることがないから)。けれども想像力によっては連帯できる。(235ページ、太字は原文では傍点)

東は一般意志2.0が「人間の動物性」を抽出するものであり、人間の「無意識」の集合であると考えている。だから、それを基盤に置くことで、社会を作る「群れる動物」である人間の本能を生かした社会統治が可能になるのではないかと考えるのだ。

わたしたちは、言葉の力、議論の力を過信することをやめなくてはならない。いくら言葉を尽くしても決して説得できない相手はこの世界に存在し、そしてわたしたちは、彼らともまた共存していかねばならないのだ。(240ページから241ページ)

東の言葉を待つまでもなく、私たちは未来へと歩を進めねばならず、他のすべての人びとと共存していかねばならない。異なる言語環境にいる人との熟議が困難であることはもちろんだが、同じ国内にいてさえ、熟議が困難な相手がいる。いや、熟議を拒否する人さえいる。そして私たちはその人たちと一緒に社会を運営していかねばならない。私は現時点では東の着想を全面的に支持することはできない。しかし、より有効な解決策が見つからない場合、すでに解決策として提示されている東の提案を取り入れることも考えねばならない。

東は、熟議では民主主義は行き詰まると考えている。その理由としてテロへの対応やナショナリズムへの対応が挙げられている。これらは大衆の無意識や情念に根ざしているものと考えられ、熟議では対応できない。

筆者はここで、決してアーレントやハーバーマスが無意識の力を知らなかったと主張したいわけではない。言うまでもなく、彼らは知っていたことだろう。とりわけアーレントは — ユダヤ人であり『全体主義の起源』の著者でもあった彼女は —、情念の力の怖さを知りすぎるほど知っていたはずだ。おそらく彼らは、だからこそ逆に、あまりにも潔癖に、理知的に、政治から無意識の領域を排除しようとしたのではないか。(192ページ)

彼らの思想の元になっている、社会とは個人が欲求を満たす活動のために作り上げたものだとする考え方はヘーゲルにまでさかのぼれるという(153ページ)。その源流はロックやホッブズにある。それに対し、ルソーは人間は「憐れみ」を持っているから社会を作ったと考えた(138ページ)。現在では、ヒトは小児期から助け合い、平等を好むことが実験で明らかになっている。ルソーの見方を支持する事実だろう。

このルソーの見方との関連で紹介される哲学者ローティのアイロニー論が興味深かった。

ローティは[中略]アイロニスト(アイロニーを実践しているひと)を、「自分にとって最も重要な信念や欲求の偶然性に直面する類の人物」と定義している。「偶然性」とはいささかわかりにくい表現だが、これはつまり、なにかが真実であることや普遍的であることを信じていながら、しかし同時に、その信念がたまたま自分が信じているものでしかなく、従って他人がそれを共有しない可能性もあるという、そのような「たまたま」の感覚をもつことを意味している。つまりは、ローティは、あることの普遍性を信じながら、同時にその信念そのものが特殊であることをも認める、そのような自己矛盾を抱えたひとをアイロニストと呼ぶのである。(230ページ、太字は原文では傍点)

なかなか理解が難しいが、その反対が原理主義者だろう。自分の信じている宗教や理念が絶対に正しいと信じ、他の考え方の存在を許さない。現在の世界の混乱は原理主義者たちの抗争が招いているようにも思えるし、その原理主義は情念や無意識に支えられているようにも思える。

ローティの考え方は自己矛盾を容認し、それに耐えるということだが、これは相対主義の論理的な帰結であると東は指摘する。たしかに、自分と相手の違いを認める相対主義の立場に立てば、自分の相対主義をも認めない立場すら認めるしかなく、自己矛盾を抱えることになる。
(この項つづく)

東は「現代社会はあまりに複雑で、すべてを見渡せる視線はもはや存在しない(170ページ)」と述べる。たとえば最近のCOVID-19騒ぎを見てもそれは明らかだ。ウイルスによる感染症という小さな範囲のことであっても、その全体を見渡せている人は少ない。感染症治療の専門家であっても、流行の制御など公衆衛生に疎いことがある。医師であっても感染対策に疎い人がいる。ましてコメンテーターなどと呼ばれる芸能人や評論家がきちんと事実を把握しているわけがない。きちんとした情報を伝えようという気が、特にテレビには希薄で、面白ければいい、ハラハラドキドキさせればいいと考えて番組を構成しているようにしか思えない。だがそれは以前から言われていたことだ。ある分野で有名な人物に、まったく違う分野についてのコメントを求めたりする。有名人であれば何でもいいという態度だ。

いま「選良」と呼ばれる人々は、現実には特定の「業界」の専門家でしかない。彼らはその業界を離れれば、平凡な消費者、無見識な大衆の一員にすぎない。一流の政治学者が凡百なベストセラーやポップスに涙し、一流の経済学者がネット右翼と変わらぬ偏見をもち、一流の数学者がじつに凡庸な国家観や家庭観を語ることは十分にありうる。実際にツイッターのようなソーシャルメディアは、かなりその身も蓋もない現実を暴いてしまっている。(170ページ)

上の引用に出てくる「政治学者」「経済学者」「数学者」には特定のモデルがいるのだろうか。ツイッターをせず、そのようなことにあまり関心のない私にはわからない。

いずれにせよ、選良が大衆を指導する、あるいは啓蒙するという構図には問題があると東は言う。だから、大衆の欲望を抽出し、それを「社会の無意識」として政治の制約条件(165ページ)にしようというのだ。

東は、大衆の欲望が社会に大きな影響を及ぼしている例としてナショナリズムを挙げる。ナショナリズムは民族主義とも国家主義とも訳されるが、自由主義や共産主義のような哲学的な基礎がない。

にもかかわらず、、それは不思議なことに世界中の人々を惹きつけ続けている。その事実は、ナショナリズムの力が、理性ではなく欲望に、国民の意識ではなく無意識に根ざしたものであることを意味している。(172ページ)

ナショナリズムが情念の問題であるとわかれば、なぜ理性的な説得が功を奏さないのかがわかると東は指摘する。私はこの説明が腑に落ちた。ヘイトスピーチも同じだろう。ヘイトに対抗するには、理性的な説得ではなく、無意識の分析から始めなければならないのだ。

インターネットの利用が、かならずしも知見を広めることにつながらないことは、すでにいろいろな人が述べている。情報は能動的に集めねばならず、そこに偏りができるからだ。

ネットは一般に、アクセスしたい情報にはいくらでもアクセスできるし、話したい相手とはいくらでも話すことができるが、逆に(自分にとって)不愉快で無意味な情報はいとも簡単に遮断できる、そのような特徴を備えていると考えられているからである。ネットは、社会学者の宮台真司が言うところの「島宇宙」を強化する。(125ページ)

以前、グーグルの開発者の話を聞く機会があったので、検索について質問してみた。その際彼は検索結果にわざと関係ないものを混ぜるというアイディアを語ってくれた。私も、反対の条件で検索した結果をかならず混ぜるというアイディアを話した。

ところが、サンスティーンがすでにもっと大胆な提案をおこなっていたのだという。

実際にサンスティーン自身、同じ著書[『インターネットは民主主義の敵か』]で、ネットでの公共的議論を活性化させるため、たとえばあらゆるサイトに反対意見へのサイトへのリンクを張ることを義務づけてはどうかと、大胆な提案を行っている。(126ページ)

東は「あまりに極端な提案」だとしているが、私はそうは思わない。たとえば政党のホームページにはかならず他の政党のホームページへのリンクを置かねばならないといった規制ができるし、それはある程度意味のあるものではないか。あるいは、自治体などがパブリックコメントを求める場合、申請によってコメントに関連するウェブページへのリンクを併せて掲載するということも考えられる。

一方で東はツイッターには「島宇宙を横断」する機能があると言い、期待を表明している。

ツイッターのユーザーは、自分の画面に自分が好む人物のツイートだけを並べ、自分専用のコミュニケーション空間(「タイムライン」と呼ばれる)を作ることができる。タイムラインに掲載されない外部のツイートは、多くのユーザーにとっては存在しないも同然だ。(252ページ)

しかし、タイムラインでフォローしている人物のツイートなら何でも受け取ることになるので、その人物が誰かのツイートをリツイートすると、タイムラインにない人のツイートを読むことになる。

ひらたく言えば、ツイッターは、ユーザーに、彼あるいは彼女が決して読みたいと思わなかったものを強引に読ませる仕組みを備えているわけだ。
この仕組みの存在は、あるひとつのツイートが、島宇宙の壁を打ち破り、多様なタイムラインのうえを水切りの飛び石のように進んで、結果として本来ならたがいに繋がるはずもなかったユーザー同士を結びつけてしまうことを意味している。(253ページ)

この仕組みは、人びとの意見を「かき混ぜる」には少し弱いと私は思うが、島宇宙の壁に穴をあける機能として有用であることは間違いない。

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