阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2020年02月

私は広井の指摘により「リベラリズム」という言葉の使い方の問題に気づいた。

「社会民主主義」「保守主義」「自由主義」という言葉は、ヨーロッパの政治における基本的な用語であり、実際、政党の名前などにもそれは使われているものである。一方、アメリカを中心とする政治哲学の領域では、(日本でも近年様々な文脈において言及されるようになっているが)、「リベラリズム」「コミュニタリアニズム」「リバタリアニズム」という用語法が一般的である。
ここでもっとも注意すべきは、「リベラリズム(自由主義)」の意味がアメリカとヨーロッパでほぼ正反対の意味になっている点である。(191ページ)

米国のリベラリズムは、米国民主党のような、平等や社会保障のために積極的介入をする政府を志向する立場だが、欧州では逆に市場経済を重視してそれに対する政府の介入は最小限にするという立場だ。

政治学は門外漢なので、これまであまり気にしたことがなかったのだが、頭の中にしっくりしないものがあることには以前から気づいていた。この指摘を読んですっきりした。

もうひとつ私の注意を引いたのが、中国における「社会主義市場経済」についての言及である。広井は、「社会主義市場経済」とは社会主義から出発しつつそこに資本主義的な要素(市場経済)を導入したものであり、資本主義から出発しつつそこに社会主義的な要素を導入した「福祉国家」と非常に近い関係にあると述べている。彼は両者の違いを土地所有の公有性に求めているが、はたしてそうなのだろうか。

私は以前、米国の土地はほぼ全部政府が所有していると聞いたことがある。一部に軍が所有している土地があるが、私有地はなく、いわゆる地上権の売買をしているだけだとのことだった。そうであれば、中国と米国の違いを土地所有制度の違いに求めることはできないと思い、インターネット上で少し調べてみた。手近なところでウィキペディア(https://ja.wikipedia.org/wiki/ホームステッド法)と米国務省出版物「権利章典 – 財産権(仮翻訳)」(https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/2662/)および論文2編(「アメリカ不動産取引法概説」http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81010050.pdf、「アメリカの土地利用政策序説」https://www.maff.go.jp/primaff/kanko/nosoken/attach/pdf/195810_nsk12_4_01.pdf)に目を通したが、米国政府は広大な公有地を持っているものの、土地の私的所有は許されていることがわかった。聞いた話がどこまで真実であるのか、確かめてから考察に加えなければならないとしみじみ感じたが、すべての伝聞の「裏を取る」のは非常に難しい。専門外の話をするときにはじゅうぶん気をつけることを自戒としたい。

広井の歴史観、文明観もなかなか面白いと思ったが、ここでは述べず、いずれ他の歴史観や文明観と比較する形で整理していきたい。ただ、いくつか注意すべき指摘があったので、それらをここでまとめておきたい。

まず、日本が1000兆円を超える膨大な借金を抱えるに至った経緯について、彼は次のように考えている。

これまで日本人論などの文脈でも論じられてきたように、日本人は〝場〟の空気というものを最優先で考える傾向が強いため、「分配」や「負担」のあり方といった、〝場〟の合意がなかなか難しそうな問題については、〝その場にいない人々〟に押し付けてしまいがちである。そして、思えば〝その場にいない人々〟の典型が「将来世代」だろう。他国に類を見ないような、将来世代への借金のツケ回しの背景には、こうしたことが働いていると私は思う。(179ページ、太字は原文)

確かにそうかもしれないが、私は政治家が落選を怖がってきちんとした政策提言ができないことが第一の理由だろうと思っている。国会議員はちやほやされ、おまけに金になる。そこで欲の張った人間が国会議員になろうと集まって来る。落選すれば何にもならないので、厳しい財政政策を打ち出すことができない。結局出費は増加し、赤字は膨らんでいく。甘い言葉を口にする人や地元などに利益誘導する人が当選し、負担や我慢を訴える人は落選する。落選すればその政策が実現される可能性は断たれる。もちろん国会議員の中にもきちんとした人がいることは知っている。

だがこれは国会議員を責めるものではない。どのような国会議員であれ、それを選んでいるのは国民なのだから。国民はその国民にふさわしい政府しか持つことができない。

広井は、ヨーロッパでは教会が村の中心にあり「日本とは全く違うという風に以前の私は思っていた(126ページ)」が、最近では、日本でも神社や寺が地域にあることは同じで、ただそのコミュニティ内での役割が忘れ去られているだけだと考えている。そこで彼は、神社や寺を中心とした行事である「祭り」を生かしたコミュニティづくりをおこなっている。

〝祭りが盛んな地域ほど若者が定着したりUターンする傾向が高い〟という指摘もあり、地域の伝統文化や、そこから生まれる地元への愛着が、これからの時代の地域再生や活性化にとって無視できない重要な意味をもつだろう。(125ページ)

彼は現在「鎮守の森・自然エネルギーコミュニティプロジェクト」に取り組んでいる。

「鎮守の森」に象徴されるような自然信仰ないし自然観は、本来的に自然エネルギーの発想と親和的であり、自然エネルギーという現代的課題と、自然信仰とコミュニティが一体となった伝統文化を結びつけたものとして、(希望を込めて言えば)日本が世界に対して発信できるようなビジョンともなりうる可能性があるのではないか、というのがここでの基本的は考え方である(127ページ)

ただし、彼が「鎮守の森」に関心を持つようになったのはコミュニティや地域の関連ではなく、死生観をめぐるテーマの関連であったという。

私の場合、自分の死生観について考えるときに「鎮守の森」が出てくることはない。また、祭りというものも、嫌いではないが夢中になるほうでもなく、広井の考え方は理解するが、感じ方までぴたりと重なるわけではない。

確かに地域の再生を考えるとき、その地域に入ってじっくり観察すると、祭りが大きな要素になっているということはあるだろう。彼のところの学生が、出身地の祭りに惹かれて「地元の活性化に関わっていきたい」と留学を早く切り上げたエピソードも紹介されている。結局、私が都会育ちであまり地元の祭りに縁がなく、原体験として祭りや鎮守を持っていないということなのだろうか。広井の運動が結果を出しているなら、それが彼が正しいということの証明になるだろう。

私は彼を批判したり無視したりするつもりはない。私には日本の将来を持続可能な方向に導く構想も手段もない。広井の活動が成果を上げてくれることを期待したい。また、機会があれば援助してもいいとさえ思う。

広井は、現在の人口減少問題のルーツは高度成長期の東京への労働人口の集中にあり、当時上京してきた若者たちが東京に定着して高齢期を迎えたから今の問題があるとしている。そのとおりだろう。彼はこれを「高度成長期に起こったことの負の遺産」と呼んでいる。

現在は、高度成長期のような規模ではないが、再び人口の東京一極集中が顕著になっているという議論があるそうだ。その理由として広井は次のような点を挙げている。

上述のように高度経済成長期に大量に首都圏に移り住んだ当時の若者層が高齢世代となり、その結果として近年の首都圏では大量の退職者が発生しており、そのため自ずと大規模な〝人手不足〟ひいては求人が生じ、地方の若者を〝吸い寄せる〟結果になっているという点だ。(98ページ、太字は原文)

労働力の需要は退職者の穴埋めだけにあるのではない。東京、特に23区は急性期の病院が多いものの、回復期の病院が少ない。高齢者が増えれば、慢性期の疾患も増え、回復期医療やリハビリテーション医療の需要が増える。現在、地方に基盤を持つリハビリテーション病院が東京に進出しており、それらの病院は地方で職員を養成・採用し、東京で働かせている。また、介護人材も不足しており、それも地方から人を吸引する力になっている。広井も指摘しているように、団塊の世代が後期高齢者になれば介護人材の需要はますます高まるため、さらに若者を首都圏に呼び寄せることになるだろう。

広井は、これは「高度経済成長期に起きた現象に最後まで振り回される」パターンで、「最悪のシナリオ」であるとしている(98ページ)。広井が提案するのは、集団就職で東京に出てきたものの「魂は故郷に置いてきた」という人がいたなら、故郷に帰ってはどうか、というものだ。高齢者が地方に移住することで「年金マネー」が地方に落ちるという「空間的な再配分」も起こる(99ページ)。

だが、私が聞いている話は明るい話ばかりではない。高齢者が住環境を変えることの負荷についてはすでに書いたが、昔暮らした地方に帰っても、すでに馴染めなくなっていたり、地方に残っていた親戚から疎まれたりすることがあるというのだ。ずいぶん前に聞いた話なので、過疎化が深刻になった現在では様子が違うのかもしれないが、その点を是非確かめておきたい。

日本人が他人に対して言葉や表情による明示的コミュニケーションをおこなわないのは、それが不要であると判断しているからであるのは間違いないだろう。他人も同様に考えてくれると思うからコミュニケーションの必要性が下がる。同質的な色彩が強い島国ならではの考え方かもしれない。

日本は元来多民族国家である。詳細は不明だが、南方系と北方系の両方の人びとが日本人の祖先となったことは広く認められていることだろう。古代日本には多くの渡来人が大陸から渡ってきており、飛鳥の都の渡来人は人口のかなりの割合を占めていたのではないかと考えられている。現代でもアイヌ民族は独自の文化を維持しており、琉球国が日本国に併合されたのはつい最近のことだ。だが、周辺地域との交流の物理的ハードルが高い島国であったために、日本で暮らす人びとは急速に同化し、均一性のかなり高い文化圏を形成したのではないだろうか。

一方、ヨーロッパは多民族が広い平地に暮らしており、各民族が自分たちの文化を保存できたばかりでなく、他の民族と付き合う文化を発達させてきたのだろう。昨日は英国の例を挙げたが、ラジオのドイツ語講座(「まいにちドイツ語」)の2018年8月22日の放送で講師の藁谷郁美とダグマー・クンスト、シュテファン・ブルックナーが述べていたことによれば、ドイツでは教科書に「Kompliment」の項目があり、どのように相手を褒めるかの課題もあるという。このKomplimentという単語は日本では「お世辞」と訳されるのだが、日本語の「お世辞」には「心にもない嘘」というようなネガティブな響きがあり、訳語としてはふさわしくない。ドイツではKomplimentは人と人とのコミュニケーションを円滑にするための重要な要素だと捉えられているのだそうだ。

今後、日本で移民が増えると言っても、文化を変えてしまうほどには増えないだろう。だが、かなりの数になることは間違いない。そのような人びととうまく付き合っていくためには、私は日本人の側から積極的に変えようと心がける必要があるだろうと考える。一方で広井は、日本の人口減少を救う「地方分散型」社会を実現するには、独立した個人がゆるやかにつながる「都市型コミュニティ」が必要だと考えており、そのために〝無言社会〟(90ページ)から脱することが必要だと考えている。

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