阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2020年02月

第3章は「法哲学の教室」で、人間・環境学研究科教授の那須耕介が担当している。講義のタイトルは「人間は〝おおざっぱ〟がちょうどいい」で、副題が「安心、安全が人類を滅ぼす」となっている。いかにも私が好きそうな題だ。

昨日も「安心・安全」という言葉の使い方に文句をつけたが、那須も「『安心・安全』のおかげで、なんだか変なことが起きているぞ」と気づいたという(105ページ)。

「安心・安全」という言葉の問題点を、那須は次のように整理している。

  1. 「安心」と「安全」がいつもセットで扱われている。

これは私も述べたことだが、「安心」は主観的な感覚、「安全」は測定可能な確率的事象で、本来一緒に扱えないものだ。

  1. 人任せ、国任せにしてしまいがち

人が「安心・安全」というとき、その裏に「誰かに安全性を見極めてほしい」「誰かに安心させて欲しい」といった「人任せな心情」が見え隠れすると那須は指摘する。

すべての「安心・安全」は自分で確保すべき、などというつもりは毛頭ありませんが、国に丸投げして当然という認識もいただけません。人任せにすることで、問題がさらに増幅されてしまうという側面もあるからです。(113ページ)

現在問題になっているCOVID-19(新型コロナウィルス)感染問題でも、国がもっと規制すべきというようなことをいう人がいる。だが、そのような強力な権限を国に与えることには非常に大きな危険を伴うことに注意すべきだ。国の規制に任せるのではなく、国民一人ひとりが考え、責任を持って行動することが必要なのだ。

  1. キリがない

安心は主観的な問題なのであるから、どこまで追求しても「安心できない」という人がいてもおかしくない。実際に、今回のCOVID-19問題でも、神経質だが非科学的な人の発言がまかり通っていると思える。

那須は、「安心・安全」の問題点を列挙し、詳しく説明しているが、長くなるので、明日書くことにする。

なお、今日取り上げたCOVID-19感染症について付言しておく。国はこの感染症を指定感染症(2類)として定めた(https://www.mhlw.go.jp/content/10900000/000589748.pdf)。このため政府に強い権限が与えられたが、感染者の人権は容易に無視される。また、軽症の陽性者が数多く収容され、重症者の収容どころか一般の入院ができなくなる可能性すらある。この指定が混乱に拍車をかけるものとなる可能性が高いと思うが、混乱をどこまで抑えられるかは現場の医療者の冷静な対応にかかっていると思う。

山内は「サービスは闘いである」と主張する(080ページ)。これがインバウンドの外国人にも当てはまるかどうかはわからないが、少なくとも日本国内において、日本人には当てはまるだろう。

サービスが闘いになるのは、人が出会ったときに承認欲求が起こるからだ。二人の人が出会うと、お互いに認められたいと思い、無意識のうちに水面下で闘う。勝ったほうが「主人」となり負けたほうは「奴隷」となって、主人は奴隷から完璧な承認を得られるが、そのときには承認が意味をなさなくなる。自分に従属した人から承認されても意味がないからだ。

「主人と奴隷の弁証法」から言えるのは、私たちが闘いを経てはじめて、自己を獲得しはじめるということ。ひいては、サービスにおいて客を否定する局面は、必ず必要だということです。
お客が受け身でどーんと座っているところに、手とり足とりかゆいところをかくサービスをするだけでは、お客を本当の意味でハッピーにできません。
「お客さん自身がどう振る舞い、どういう客になろうと努めるか」という要素が、サービスにおいては非常に重要です。(081ページから082ページ、太線は原文)

山内は、「サービスは一方的に与えられるものではなく、〝人と人との間にある〟」ともいう。サービスとは「価値共創かちきょうそう」であり、提供側と受ける側が一緒に作っていくものだというのだ。

このような考え方に立つと、病院で提供されるのはもちろん「おもてなし」ではなく、「サービス」でもないのかもしれないと思えてくる。病院は確かに患者や家族に心が安らぐ場を提供しなければならないと思うが、それは鮨屋で提供されるサービスとは別次元のものと考えねばならない。

医療に100%の安全はないので、病院や診療所で完璧な安全を提供することはできない。安心は、安全とついにして使われることが多いが、主観的な感覚であり安全とはまったく別のものである。そして安心を提供することはさらに難しい。だが、サービスにおいて「お客さん自身がどう振る舞い、どういう客になろうと努めるか」が重要であるのと同様、医療施設においても、患者がどのようであろうと努めるかが患者の満足度や安心に大きく影響するのではないかと思う。

医療機関で患者や家族に何をどう提供するのかということについては今後も考え続けていきたい。

第2章は「経営の教室」で、経営管理大学院准教授の山内裕が担当する「なぜ鮨屋のおやじは怒っているのか」だ。サービスの基本について考えさせられる、非常に良い講座だった。

サービスというと、愛想が良いことや、痒いところに手が届くようなことを考えることが多いが、山内は「鮨屋のおやじが頑固で無愛想だから、行きたくなる(077ページ)」と述べる。たとえばカジュアルなイタリアンの店でよくわからないカタカナの料理名が列挙されているのも同様のことなのだそうだ。

実は、サービスにおいて、提供者側が客を満足させようとすると、かえって客は満足しなくなるというパラドクス(逆説)が起こります。「満足させよう」とするサービス側の気持ちが透けてみえてしまうと、客は満足しないのです。同じように、相手を笑わせよう、信頼させようとすればするほど、客の気持ちは逆の方向へ向かってしまいます。(078ページから079ページ、太字は原文)

この原因は、サービス提供者と客との間に生まれる上下関係だという。提供者が相手に従おうとすれば立場が弱くなってしまい、客のほうは、自分より下の立場の人からのサービスだと価値が低いように感じられてしまうのだ。

医療の世界では、医療を直接提供する医師のほうに圧倒的な力があり、患者との間の上下関係が覆ることは少ない。だが、事務職員との間にはそのような上下関係が生じる可能性は高い。現在問題となることが多いモンスター・ペイシェントも、医療側が「満足させよう」と努力するために生まれている可能性が高い。医師や看護師は愛想が良くてかまわないが、受付など事務職は親切丁寧であっても、ある意味で毅然とした雰囲気が必要なのかもしれない。

ただし、私にも心当たりのことはある。若い頃の話だが、患者が間違った方向に進みそうなために一心に説明したのに、まったく信用してもらえなかったことがある。おそらく、信頼してもらおうと努めたために、かえって患者や家族の心は離れていったのだろう。その患者はその後、予想どおりの厳しい状態となった。今でも思い出すとやりきれない思いがこみ上げる。

酒井敏、他『京大変人講座』(三笠書房)を読了した。これは酒井敏と越前屋俵太が発起人となった京都大学の一般公開講座「京大変人講座」の講義を書籍化したものだ。なかなか面白かった。

第1章は地球の誕生から現在までの歴史を振り返る講義だ。地球の誕生時には酸素が無かったこと、生命が誕生して酸素を出すようになったが当初酸素は猛毒であったこと、酸素を利用する生命体が他の生命体に取り込まれてミトコンドリアになったことなどは、多くの科学入門書に書かれている。

さらに3回の全地球凍結があったことも、よく話題となる。その厳しい条件下で、生物は逆に増えたと考えられる。「地球がなんらかの想定外の事態に巻き込まれるたびに、それまで生きてきた生物たちは消えていきましたが、同時に、同じ状況下で繁栄した生物がいたのです(051ページ)」という言葉は意味深い。

特に面白いと思ったのは現在は氷河期に挟まれた間氷期だと考えられるのに、今までの間氷期と異なって1万年以上という長期間、例外的に続いているという指摘だ。

例外的に長く続く間氷期の原因はわかっていません。ただ、地球の気候が今、例外的に安定していることは確かです。気候が安定しているからこそ、毎年同じ場所で安定して農業や牧畜をすることができますし、都市をつくって同じ場所に住み続けることができるのです。約250万年前から存在する人類が、数千年前になってようやく高度な文明を発展させることができたのは、気候の安定あってこそです。(058ページ)

私たちの現在の文明が、自然の気まぐれによって保たれたものであるということが感慨深い。間氷期がいつものように終わり氷河期が来ていたなら、現在の文明はなく、人類すら滅亡していたかもしれない。

ところで、地球と太陽との現在の距離は、地球が熱くなりすぎずに生命が繁殖できるぎりぎりの距離にある。地球と太陽との距離は今後も変わらないが、太陽は今後、より明るく熱くなっていくことが確実であると考えられている。太陽の中の核融合が激しさを増していくことは理論的に考えれば確実なのだ。

そうなれば地球は熱くなりすぎ、水分はすべて蒸発して生命は死に絶える。ただこれは今から何百万年か先のことなのであるが。

広井の本についてばかり書いているので、もう次の本に進もうと思ったのだが、この本の第5章は「医療への新たな視点」なので、それについてもう少し書いておくことにした。

彼は、現在の体制では将来医療が持続できなくなると見越し、持続可能な医療を実現するためのさまざまな提案をしている。

医療を持続可能なものとするために必要なのは医療費の抑制だけではない。人は医療費をかけたからといって健康になるわけではない。彼は米国と日本を比較して、医療費が飛び抜けて高い米国の平均寿命が先進国中で最も短いこと、虚血性心疾患死亡率、肥満率が高いことを示し(227ページ以降)、さらに長野県の医療費が低いのに平均寿命が長いことを示して(238ページ)、生活のあり方が人びとの健康に重要な役割を果たしていることを強調している。彼は「病気の根本原因というものは、身体の内部ではなく社会や環境の中にある(241ページ)」と述べているが、いわゆる「生活習慣病」などと称される慢性疾患についてはそのとおりだろう。

また彼は日本の保健医療制度における診療報酬の構造的問題として、次の4点を挙げている。
  1. 「病院、とりわけ入院部門」の評価がうすい
  2. 「高次医療」への評価がうすい
  3. 「チーム医療」(含リハビリなど)の評価という視点が弱い
  4. 「医療の質」の評価という視点が弱い

このような問題があるのは、診療報酬の体系が開業医をモデルに作られたからに他ならない。これは広井の指摘どおりである。

医師の数からみれば、医師全体の6割強が勤務医で、3割強が開業医という具合に、勤務医のほうが多数を占めている[中略]。しかし医療機関の数としては、診療所の数が約10万であるのに対して病院の数は約8000であり、つまり経営主体の数[中略]においては圧倒的に診療所が多いわけである。だとすれば、政治力学的にはそちらの意見が通りやすく、診療所(開業医)に手厚い医療費が配分される結果になっているのである。(248ページ)

2020年の診療報酬改定では救急医療、手術についてやや手厚い見直しがおこなわれている。先日、ある診療報酬説明会に出席したところ、最後の質問で某公立病院の副院長が「外科系の見直しが多く、内科系の見直しが無いがどうしてか」という質問をした。講師は内科系に気を遣ったのか要領を得ない回答をしていたが、そもそも診療報酬は内科開業医が食うに困らないような設計になっており、開業医の団体である日本医師会にとって見直す必要などないものだということがわかっていないらしい。この程度の認識の医師が副院長を務めているのだから、公的病院の運営が鋭さを欠くのも当然のことだ。

私は、日本医師会が主導する働き方改革では、結局現場で働く勤務医のことが考慮されず、単なる形だけのものに終わるか、最悪の場合労働強化につながるのではないかと懸念している。

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