阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2019年12月

仏国では性病が広まっていたが、米軍は一貫して規制に消極的だった。

軍の指揮官には規制に乗り出さない、何より重要な動機があった。フランス人と同じく、彼らも思慮分別の問題に特段に気を使っていたからだ。軍はフランス人の性労働を隠したがったが、それは陸軍省高官の目からだけでなく、故郷アメリカの一般市民の目に触れることを嫌がってのことだった。(238ページ、太字は原文では傍点)

「思慮分別の問題」という表現がわかりにくいが、ここでは「不道徳なこと(つまり売買春)には手を出さない」という思慮分別が在仏米軍にあると本国の国民に思ってもらわねば困るという「問題」を指している。

米陸軍軍務局長は1945年5月の覚書で、軍が海外戦域で売買春を黙認したとわかれば、「軍職員の家族から訴えられるという不祥事に発展しかねない」とはっきり述べている(239ページ)。著者はこれを米軍の「二枚舌態度」と評し、「戦後の日本における性労働へのアメリカ軍の対応」と同じものだとしている(239ページ)。

米軍占領下の沖縄については、ヒルシュフェルト『戦争と性』について書いた2019年10月6日のブログで宮台の言葉を引用した。ここであたらめて繰り返すことはないだろう。管理売春の是非について、ここで簡単に述べることは困難だが、この米軍の二枚舌的態度により多くの仏国民が苦しみ、また多くの日本人、特に沖縄の人びとが苦しんだことに間違いはない。

戦争がなくなればいいとか、軍隊がなくなればいいというのでは現実的な解決にはならない。軍隊があり、世界の各地で戦争が起こっているという現実を踏まえた上での、現実的な対策が必要だ。禁止しておいて、破ったものは罰するというのも実効性に乏しい。破った段階ですでに取り返しのつかない被害が起きている可能性がある。

人間の性欲は種族保存にとって必要なものとして進化を遂げてきた。だた、社会が変化し、今は性欲のあり方と社会のあり方がずれてしまっている。性欲は今の社会に合うように何世代もかけて変化していくのだろうが、そのときには社会がまた変わってしまっている。いたちごっこなのだが、それをも踏まえた上での対策を考えねばならない。難しいことだと思う。

またこの本は、仏国でのレイプ取り締まりに関して、ひどい人種差別があったことを明らかにしている。多数の黒人兵がじゅうぶんな調査もなしに、公正な裁判も受けられず絞首刑にされた。
米軍憲兵隊長は1944年10月、米兵の犯罪リストを提出した。
隊長の統計によれば、152人のアメリカ兵がレイプの容疑で裁判にかけられたが、そのうち139人が「有色人種」だった。「ヨーロッパ大陸に派遣された兵士のうち、有色人種は約1割しかいないことを考えると、上記の数字には愕然とする」と隊長は意見した。(248ページ)
隊長は米軍が性的暴行を厳しく処罰していることを仏国民に示すため公開処刑をおこなうことを提案し、憲兵司令官はそれを採用した。
こうして1944年から45年にかけて、ヨーロッパ戦域でレイプの罪による29件の絞首刑が公開で執り行われた。ロープでつるされた者たちのうち、25人がアフリカ系アメリカ人の兵士であった。(248ページから249ページ)
このような結果になった第一の原因が人種差別だった。アフリカ系兵士は弁護士をつけてもらえないことが多く、代弁者がついた場合でも、それは被告人の上官が選んだ軍人であることが多かった(263ページ)。はっきりした証拠もなしに有罪とされたことも多かった。ある意味で事件を迅速に終結させて仏国民をなだめ、すべてを黒人であることのせいにするというわかりやすい理由づけを与えるためのものだったのだ。だが、それだけで説明できないことが2つある。
  1. 性的暴力の申し立てをしたのが仏国人であったこと。
    フランスはアフリカ系アメリカ人の間で人種に寛容なオアシスだと評判だった。にもかかわらず驚くほどの告発が「有色人ソルダ・ド・クレール」「黒人レ・ノワール」「黒人兵士デ・ソルダ・ド・ラス・ノワール」に対してなされていた。(249ページ)
  2. なぜレイプがフランスに集中したか。
    [フランスで]軍法会議にかけられ有罪判決が下されたレイプのうち、77パーセントはアフリカ系アメリカ人兵士が関与したものだった。ところがドイツでは、その数字はわずか26パーセントだった。
これには複数の要因が関係している。まず第一に、先にも述べた米軍内の差別だ。黒人はさまざまな手段で昇進の機会を奪われていた(253ページ)。また戦闘任務を与えられず、兵站、輸送、洗濯のような下積みの仕事を屈辱的に割り当てられていた。したがって、前線に出るより、ノルマンディーに近い後方の町にいることが多かった(257ページ)。兵士全体の中での割合は1割ほどであっても、仏都市部での黒人兵の割合はずっと多かったし、市民と接触する機会も多かったのだ(259ページ)。当然トラブルも多くなる。

また、仏国は人種に寛容であると思われていたが、それは平時の話で、このような混乱期には人種差別が顕著になった。著者は「フランスとアメリカは人種差別において忌むべき同盟を結んだ(251ページ)」と評しているが、仏国人の偏見は米国白人によって強化された疑いもある。有罪となる黒人が多かったとはいえ、1944年に多発したレイプの裁判では無罪の評決が下る場合が極端に多かったという。

たとえば7月にはレイプの告発件数の41パーセントが、審議途中で虚偽であることがわかった。(252ページ)

著者は「1944年の[レイプの]波の正体は、少なくともいくらかは黒人男性にまつわる不安にフランス人女性がヒステリックに反応した結果だと言えるだろう(252ページ)」としている。

レイプが起こったのは仏国だけではなかったが、その意味合いはさまざまであった。

1944年の夏、西部戦線においてレイプは黒人の犯罪になった。一般にレイプはヨーロッパ戦域でおそらく最も広まった戦争犯罪かもしれない。ただしその暴力の意味するものは地域によって違っていた。東部戦線ではドイツ国防軍がスラブ民族を隷属させる目的の一環として、とがめを受けることなくレイプに及んだ。1944年のハンガリーを皮切りに、ソヴィエト軍は報復の手段としてレイプを用いた。戦争終結時には何千人ものドイツ女性がレイプの被害者となったが、襲ったのは赤軍〔旧ソ連軍〕の兵士だけではなかった。アメリカ軍の法務総監(JAG)統計によれば、少なくとも500人のドイツ女性がアメリカ兵にレイプされていた。(251ページ)

中国東北部(旧満州)でもソ連軍の侵攻により多数の性暴力があったことが伝えられているが、実態は明らかになっていない。

ル・アーヴルの当時の市長であったピエール・ヴォワザンは精力的に対応したという。「警官を増員して主な通りや公園を巡回させ、墓地の壁の穴を塞ぎ、怪しい家を監視させた(233ページ)」のだ。だが、1945年の夏になり、「戦争が終わり、帰郷を待つ退屈した何千人ものアメリカ兵がぞくぞくと町にやって来た」ときには、状況は切羽詰まったものになった。屋外でのセックスがどんどん増えた。

彼は8月29日に米軍の現地司令官ウィード大佐に面会した。

ヴォワザンの提案は、取り立てて新しいものではなかった。アメリカに対し、フランスの制度とよく似た[中略]公認の売春制度を設けるように提案しただけだ。フランス陸軍は従来から売春宿を連隊に付属させていた。そのうえヴォワザンの提案は、アメリカに対してなされた最初の提案でもなかった。1944年の10月、シェルブールで多数のアメリカ兵がレイプの罪で告訴されたとき、地元警察がアメリカ軍に書簡を送り、自軍の兵士のための売春宿を設けるよう迫っていた。同様に1917年から18年にもフランス当局は、公認の売春宿を設けるか、あるいはせめて黙認するようアメリカ軍指揮官の説得を試みたが、その努力は徒労に終わった。(234ページから235ページ)

仏当局は、米軍同様、「売買春を性的暴行の抑止力と広く見なしていた(234ページ)」ので、レイプが頻発している状況に対し、防止のために性の提供が必要だと考えていたのだ。さらに、性病の蔓延が無視できない状態になっていたため、感染管理のためにも管理売春が有効だと判断した。

ヴォワザンの要求に、米軍の責任者であるウィードはいっさい応じなかった。「かわりに軍は女性たちの治療に当たるアメリカ人医師を40人派遣すると約束し[中略]さらに港に水上病院を係留し、必要な物資を供給することも約束した(236ページ)」のだが、「ヴォワザンの綿密な書簡記録のなかには、アメリカがどちらの約束を果たした証拠も一切ない(同ページ)」という。

米軍が気にしていたのは、仏国での不品行が本国の家族に知られることと、予算を抑えることだけだったのだとわかる。

著者は「多くのアメリカ兵はフランス人女性と礼儀をわきまえた誠実な関係を築いた(100ページ)」としているが、同じページで「アメリカ兵たちは駐屯地の町や都会で大酒を飲み、売春婦をはべらせ、戦地で覚えた暴力を罪のない市民に加えた」とも書いている。酒に酔ってジープを飛ばし、多くの市民が犠牲になったという(97ページ)。しかし「こうした暴力は圧倒的にアメリカ人に限ったもので、カナダやイギリスの連合国軍によるトラブルはまったくと言っていいほどなかった(97ページ)」とのことだ。米軍だけだった理由はわからないが、ここから受ける米国人の印象は粗野で荒くれた田舎者といったものだ。米国は西部開拓時代を通じて暴力が支配する国だった。その中でこのような国民性が育まれたのかもしれない。

さらに、米国は今も当時もキリスト教原理主義の国で、公式には性について非常に制限的で抑圧的な考え方をしている。だが、現実はそのようにいかないことも理解しており、実質的には二重基準(ダブルスタンダード)で動いている。だから、売春宿の利用を認めず、売春を(表向きには)厳しく非難する一方で、兵士にはコンドームを配布していた。

アメリカ兵の乱交はそれでも[開戦当初は]公式には否定され非公式には認知されていたが、兵士の数が何百万という単位で増え、ジャーナリストが師団と行動をともにする時代になると、この申し合わせ[表向きには規制すること]にはますます無理が生じてきた。その結果、一連の矛盾が生まれたのだ。すなわり売春宿は「立ち入り禁止」ながらも人種で分離され、セックスは糾弾されながらもコンドームが配られ、同性愛は嫌悪されながらもつねに身近に迫り、売買春は禁止されながらもひそかに組織された。(226ページ、[]内は引用者注)

陸軍省が売春宿を禁止したのは「そんな施設を作ろうものならジャーナリストに見つかり、母国のメディアで暴露される(208ページ)」を嫌ったからにすぎない。

とりわけ軍は、こうした無分別な性行動[売春を公認すること]からアメリカの一般大衆を「守る」ことを望んでいた。その結果として、アメリカ兵の性的乱交が町じゅうの公園や墓地、通りや廃墟で発生したのだ。性的関係は歯止めがきかず世間に周知のものになった。性交が真っ昼間から、子どもを含む市民の前で披露された。ル・アーヴルやランスなどの都市の住民たちは、こうした公共の場での醜態を言語道断であり恥ずべきものだと非難した。(208ページ)

引用していてうんざりしてくるが、当時の仏国の状況は沖縄よりも悪かったかもしれない。そうだとすれば、ひとつには仏国での戦闘のほうが沖縄よりも激しかったため、仏国の米兵のほうがストレスレベルが高かったからではないだろうか。

仏国では売春が合法であったことも影響しているだろうが、米国人には仏国人がセックスに寛容だという先入観があった。

アメリカ人は昔からフランス人のことを「セクシー」な国民だと思い込んでいたので、『スターズ・アンド・ストライプス』は、この前々からの先入観を利用し、フランスでのアメリカの凡庸化された使命をつくり上げた。(90ページ)

だが、このような見方は単に性的な関係を後押ししただけではない。仏国の地位をおとしめることにも役立った。米国をはじめ連合国側はド・ゴールを仏国のリーダーとして認めようとしなかった。

フランクリン・ローズヴェルトもウィンストン・チャーチルも、ド・ゴールを主権国家のリーダーとして正式に認めてはいなかった。とはいえド・ゴールはレジスタンス、さらには地方および全国で機能していたフランス国民解放委員会(CFLN)をほぼ指揮下に置いていた。それでもイギリスとアメリカの連合国軍はフランスを独立国家にするつもりはなく、1943年にシチリア島で連合国軍がこしらえた組織をモデルに連合国軍政府(AMGOT)を樹立しようと計画していた。連合国軍が上陸の日程をようやく決めたときにも、ド・ゴールは土壇場になって知らされ、統治権を保障されていなかった。フランス国民は投票できないのだから、ド・ゴールを主権国家のリーダーとして望んでいるかどうかは知りようもない、というのがローズヴェルトの言い分だった。しかも連合国軍はノルマンディーに上陸する兵士のために、ド・ゴールに相談もなく新しい通貨まで発行した。(14ページ)

著者はこのような行為を正当化するためのキャンペーンに、性が利用されたと考えている。仏国男性が意気地なしで、主権国家を担うにふさわしい存在ではないと米国民に感じさせる効果があったと見なしている。

また、仏女性に囲まれたりキスをしたりしている写真が米国で報道されると、男性は誘惑されたのだろうが、女性は当然反発した。この本では米国女性に取材した当時の雑誌の記事が紹介されている。夫がパリの女性とキスしている写真を見つけた妻は「麺棒を振りかざし」抗議の意を表した(95ページ)。

同じ親密な表現—つまりキス—が、フランスとアメリカの銃後ではまったく異なる意味を持つようになった。『スターズ・アンド・ストライプス』の写真に撮られたキスは、4年もの間自由を待ち望んでいた国民の喜びと感謝の表現だった。ところが、この軍隊向けの新聞はこうしたキスを性的なものとして描いたうえ、アメリカとフランスの団結のシンボルにつくりかえたのだ。さらに『ライフ』誌に載ると、この同じ親密な表現が、アメリカ人の性規範によってまたも姿を変えた。こうして不当に性的なものにされたキスはフランス人の性的堕落にまつわるアメリカ人の固定観念をいっそう強めることになった。(96ページ)

当時、米国と欧州の間の旅行はもっぱら船旅だったから、欧州旅行をした米国人は現在のように多くなく、仏国の国情などは伝え聞き程度の情報しかなかったのだろう。現在であれば(連合軍が仏国を解体しようとしていたことは別にして)このような誤解は起こりにくいのだろうと思う。つい80年ほど前の世界がこのようなものであったということを意識したことがなかった。私が近現代史に弱いのは学校教育のせいだけではなく、関心の持ち方の偏りもあるのだろう。

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