阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2019年11月

11月23日に久里浜医療センター院長の樋口進の講演を聞く機会を得た。久里浜医療センターは依存症治療で有名で、樋口は精神科医師である。この日の講演のタイトルは「ネット・ゲーム依存の現状と対応」だった。この領域は最近出現したものなので、まだじゅうぶんなエビデンスが蓄積されていない。樋口の話も、あくまで彼が体験した症例や、調査した結果に基づくものとのことだったが、依存症に関しては日本で有数の施設であるから、彼の知見は日本のネット・ゲーム依存症の現状をよく捉えているのではないかと思う。

樋口はネット・ゲーム依存と診断する条件を4つ挙げている。
  1. ゲーム・ネット時間が守れない・減らせない
  2. ゲーム・ネットが生活の中心になっている
  3. ゲーム・ネットによる問題が起きている
  4. 問題が起きているがゲーム・ネットを続ける
よく言われる「禁断症状」(ゲームをやめさせると荒れるなど)については「あると言われている」と述べるに止まり、条件には入れていない。彼は「ゲームをやめさせると暴れるといっても、単なる反抗と区別できない」と述べていた。

依存の症例としては、マウスの使いすぎで手の骨が変形した例、親の遺産1,800万円をゲームに使い果たした例などが紹介された。依存は対戦型のオンラインゲームで起こることが多く、オフラインゲームでは起こらないという。現在、もっとも依存が多いゲームが「フォートナイト」だそうだ。

日本経済新聞では「eスポーツ 熱狂の正体」という連載が開始され、11月24日配信に配信された第1回ではまさに「フォートナイト」が取り上げられていた(https://www.nikkei.com/article/DGXMZO52452200R21C19A1000000/)。eスポーツとは、コンピュータゲームのことで、要するに名前を変えて抵抗感を少なくしようとしただけのものだ。記事によれば米国にはeスポーツのコースを設置した大学があるという。米国では今後ますますゲーム依存が増えていくかもしれない。

子どもにコンピュータやスマートフォンなどを与えれば、当然ゲームを始める。樋口の調査によれば、ゲームを週1回やるようになる時期と、ゲームをする時間の長さには明らかな相関がある。

ネット・ゲーム依存
神奈川県A市の公立中学1年生549名の調査データ
習慣的な(週1回以上)のゲーム開始年齢と現在のゲーム使用時間(*p < 0.05, **p < 0.01)

つまりコンピュータやスマートフォンを与える年齢は、遅ければ遅いほど良い。ところが、無知で愚かな者たちが子どもたちに早くデジタル機器を与えればデジタルリテラシーが育つと妄想し、小学校などにタブレットを配って授業などをしている。タブレットで算数の勉強をすればそれだけで算数ができるようになるといった勘違いも見受けられるように思う。教育用ソフトウェアの質が重要だということが理解されていない。また、ゲーム依存を助長するのではないかといった配慮はまったくない。

さらに、ツイッターやSNSには、危険な情報に接したり炎上にあったりする以上の、根本的な危険性がある。長くなるので続きは明日とする。

言語学者のソシュールは『一般言語学講義』の中で記号学を提唱した。この本には該当する部分の石田訳が掲載されているが、ここでは彼の解説を引用する。

まず「記号学」の提唱ですが、記号学という学問はこれから打ち立てるべき学問として予告されています。「それはまだ存在していない」が、しかし、20世紀の知にとっては「それ(記号学)は存在すべき権利を有する」のであって、これから起こる知の配置において「あらかじめ決定されている」場所を持つものであるという強い主張が述べらています。
ソシュール自身が打ち立てようとしていた新しい言語学というものが、ほんとうの意味で成立するためには、さらに一般的な学として「記号学」というものがなくてはならない。これから生まれるべき一般学としての記号学が成立した暁には、言語学はその一部になるだろう、と。(34ページから35ページ)

この時期の記号論を石田は「現代記号論」と呼ぶことにしている。石田と東は「現代記号論」がアナログメディアを基礎として起こってきたものであり、現代のデジタルメディアには対応できない古いものになってしまっていると主張する。

ソシュールの発見は「言語は記号のシステムである」というものだったのですが、記号学が扱うすべての記号活動が「言語学」と同じような性質のものとは限らない。ところが、ソシュールの仕事が水先案内を果たしたために、すべての記号を「言語のようなもの」として、言語モデルを基本に考える傾向が生まれてしまった。(40ページ)

そこで石田は記号学の原点に立ち戻り、デジタルメディアを前提とした「新記号論」を新たに組み立て直したいと望んでいる。彼は、記号論が「言語中心主義」から離脱するには、記号論が文字を扱うようにならねばならないという(49ページ)。ただし、彼の言う「文字」は活字のことではなく、デジタルデータを主体とした「テクノロジーの書く文字」である(51ページ)。彼は文字と記号のつながりを次のように説明している。

テレビであれ、インターネットの動画であれ、iPodの音楽であれ、ぼくたちは音・イメージや言葉など「記号」だけを[引用者注:テクノロジーの書く文字から]取り出し、あたかもそれが現前しているように見なして生活しています。(61ページ)

そこで彼は「テクノロジーの書く文字」を研究する文字学(グラマトロジー)が必要だと主張する。いわゆる文字を扱う文字学は、デリダが主張したもので、自分の文字学はソシュールの記号学と同様にあるべきものとして約束されていると述べた(65ページ)。石田も、自分の(テクノロジーの文字を扱う)文字学には、約束された場所があると考えているようだ。

石田の話には壮大な夢があり、非常に興味深い。だが、デジタルデータを文字と捉え、そこから生まれる音や映像を記号と捉える見方には、正直言ってついていけない。喩えとしてかなり無理があるように思う。文字や記号という言葉を広く再定義すれば良いのだろうが、別のもっとしっくりくる喩え方があるのではないだろうか。彼の中では言葉によるコミュニケーションとデジタルなつながりが連続したものと認識されているようだが、私はデジタル技術に関わりすぎたせいか、両者が連続したものに思えない。したがって、私は私なりの「理論」を探さねばならないことになる。

数覚はアナログモデルだという話も面白かった。これはスタニスラス・ドゥアンヌの『数覚とは何か?』という本の記載を紹介したものだ。

この本では、たとえば1と6のどちらが大きいかを判断するよりも、5と6のどちら大きいかを判断するほうが時間が長くかかるという実験結果が紹介されています。ドゥアンヌは、ぼくたちの数の感覚が、もし記号的に、つまりデジタルに作られているのなら、こういう結果にはならないという。「1と6」も「5と6」も同じ時間で大小を判断できるはずだと。でもそうではなかった。だとすれば、人間は、水槽に入っている水の量を判断するように数を感覚しており、だからこそ近い数字の大小を判断するのに遠い数字の大小を判断するよりも苦労すると考えるほかない。そう主張するんです。(124ページ)

この話はレイコフ、ヌーニェス『数学の認知科学』の話とも通じる。『数学の認知科学』では脳科学の話はでてこず、思考過程を分析するような観念的な話が多かった。だがその話が脳科学による裏付けを得たということなのだろう。同一のものを研究の対象としたとき、得られる結論が似通ったものになるのは当然の帰結だが、理論的に考えたことが、後に実験で確認されるというのは、科学者の知力の高さを示していて、わくわくする。

『数学の認知科学』では人間の数覚の基礎を、ヒトが少数の数を感覚的に把握できる事実に置いていた。ヒトは3個、4個といった少数の個数は、一目で見て数を把握できる。1と6なら、1はすぐに「1」だとわかり、6は1より多いと判断できる。時間はそれほどかからない。5と6に場合、5は一瞬で把握できるボーダーラインで、6も同様だ。5と6のどちらが大きいかを言うには、数えねばならない。それなら時間もかかる。両者の研究は同じ事象を別の側面から捉えているにすぎない。

石田は、モデルが時代とともに更新されていくことを踏まえ、「モデルに対する批判的なまなざし(125ページ)」の重要性を説く。

私に言わせれば、すべてのモデルは不完全である(つまり、言葉を換えて言えばモデルにすぎない)。モデルを絶対的なものとみなし、それにすがることは健全な行為ではない。カール・ポパーが言うように、言説は反証可能性をに認めることによって科学的であると主張することが許される。すべてのモデルは不完全であり、不完全であることを認めることによって存在が許されるのだと信じている。

私は今まで理系と文系という言葉を何気なく使っていたが、著者らの対話の中で出てきた理系と文系の分離の話を読んで、あらためて分離の経過に興味を持った。

石田はフロイトがもともとは神経学者であり、「脳についてきわめて唯物論的な考察をしていた(108ページ)」こと、フッサールが「論理学者であること、数学者であることをやめなかった(191ページ)」ことを強調する。

フッサールはもともと数学をやっていたひとで、最初の著作は『算術の哲学』です。この本はどんな問題を扱っているかというと、人間はなぜアルゴリズムのようなものに思考を任せることができるのかという問いを立てていた。(192ページから193ページ)

ところが彼らは次第に「文系的」思考に傾いていった。この間の流れを東は次のようにまとめている。

講義の最初のほうで、1900年の重要性について言及がありました。フロイトはこの年に神経生理学を捨て『夢解釈』の理論を立てた。フッサールも同じような身振りをした。まえにも言いましたが、これはすごくベタな言葉で言えば、そこで文系と理系、哲学と科学が分かれたという話でもある。そしてフロイトやフッサールはその後、文系中の文系、まさに文系的な人間理解の親玉として受容されていった。(189ページ)

これに答えて石田は次のように説明している。

初期フロイトが、脳の部位と言語の個々の機能を対応させる「局在説」を批判して、言語装置を仮想的な装置として捉えていたことを説明しました。フロイトやフッサールの時代というのは、そういう仮想的な思考、ヴァーチャルな思考が認識論的な優位を作り出したし、それが20世紀の知を開いたこともまちがいない。
ところが文系の人文学者たちは、それにあぐらをかいてしまった。つまり、神経科学でなにが起ころうが、テクノロジーでなにが起ころうが、そんなものは自分たちが考える必要はないんだと言いだしたときに、人文科学の凋落が始まった。(189ページから190ページ)

私の理解では、繰り返しになるが、この世界を精密に理解することは人間には不可能で、人間にできることはより優れた「要約」を考え出すことでしかない。1900年より前の科学は理系と文系の混じったものだったのだろう。生物の構造や機能といった理系の知識がまだ未発達だった時期に、フロイトやフッサールが抽象的な理論を使って人間の行動についてより優れた説明ができると考え、その方向に考えを進めたとすれば、それは無理のないことだ。だが現在では脳科学が発達し、人間の行動について物質的な面から優れた説明ができるようになっている。

石田と東は人文科学の復権を訴えている(194ページ以降)が、現在なら、生物科学やテクノロジーに根ざした人間理解が可能であり、文系と理系の再統合、科学と哲学の融合もそろそろ可能かもしれない。

また、科学が発達したおかげで、人の生や死など、人間存在の根幹に関わるような事象に介入できるようになったことからも、科学に哲学の視点が必要になっている。私も人文科学の復権を望んでいる。

この本の中でいちばん面白かったのが、人類は皆同じ性質を持った文字を使っているという話だ。これはチャンギージーと下條の研究による。原論文はチャンギージーのウェブサイトからダウンロード可能(https://www.changizi.com/uploads/8/3/4/4/83445868/junction.pdf)だが、ここでは石田の説明を引用することとする。

まず、文字を文字素に分解します。そうすると、1画2画というときの「画」をストロークと言いますが、どんな文字の要素でもすべて3ストローク内で書けるということがわかります。たとえば漢字であっても、偏や旁を構成する要素は、すべて3ストローク内で書けるのです。
そうやって分解した文字素のかたちは、自然界の事物にも見出せるものです。(70ページ)

ヒトは見たものを解釈するのに、縁や稜線などの線を検出して線の結合状態を認識し、結合状態の組み合わせから見たものが何であるのかを判断している。結合状態として認識されるパターンは有限で、原論文の著者らによれば、次の図のように分類される。

Changizi01
図1 a.同じ結合に分類される例 b.すべての結合パターン(36種)

[図2は]さまざまな文字システムのなかで、L型、T型といった要素が現れる頻度分布を示したものです。「Non-logographic」(非-表語文字)とは、単純に言うと漢字(表語文字)ではないカナやアルファベットのような文字システムです。「Symbols」は文字ではない、矢印とかピクトグラムのようなさまざまな記号のことです。グラフを見るとわかるように、どの文字・記号システムでも、同じように形の要素が分布することがわかった。(72ページ)

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図2
  1. 非-表語文字(実線)、漢字(破線)、文字以外の記号(太線)のなかに、それぞれ図1-bの要素が現れる頻度を示した3つのグラフ
  2. 上の3つのグラフを平均したもの

さらに彼らは自然界の中でヒトが見ている光景を、同じようにパターン分析した。使用したのは(1)部族社会の写真、(2)「ナショナル・ジオグラフィック」誌に登場した屋外写真、(3)現代都市空間の建物や町並みの画像の3種である。その結果「3種類の画像のなかに現れるかたちの要素の分布は、先述した文字・記号のなかに現れる要素の分布ときれいに相関していることがわかった(74ページ)」のだ。

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図3
  1. 部族社会の写真(破線)、雑誌の写真(実線)、ビルの画像(網掛け線)のなかに、それぞれ図1-bの要素が現れる頻度
  2. 上の3つのグラフの平均に、文字における頻度分布の平均(図2-b)を重ねたもの(左)と、図1-bの各要素が記号と風景のそれぞれに現れる頻度の順位を示した図(右)

ここから1つの結論と、1つの仮説が導かれる。結論とは「人間は、自然のなかの事物を見分けているパターンと同じ頻度で識別要素を組み合わせ、文字をつくってきた(74ページ)」ということだ。そして仮説とは「ヒトは自然界の特徴を見分ける脳内のシステムを流用して文字を認識している」ということだ。

ドゥアンヌ[仏国の脳神経学者]の研究によれば、文字を読むひとの脳を脳内イメージング技術で観察すると、自然界の特徴を見分けるシステムと同じ脳の領域を使って文字を見分けていることがわかりました。つまり、チャンギージーが統計的に実証したことが、脳科学の側からも裏づけられているわけです。(76ページ)

ドゥアンヌはこの観察をヒトの後天的能力獲得に敷衍して「ニューロンリサイクル」仮説を提唱している(77ページ)。この仮説は、ヒトが識字のような能力を後天的に獲得する場合に、生まれながらにして持っている似たような能力を転用するという仮説だ。これはおそらく正しいのだと思う。たとえば盲人では視覚野が視覚以外の機能に振り当てられることがわかっている。人間の脳は非常に可塑性があるが似た作業に使うことで転換の効率を高めているというのはもっともなことだ。

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