阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2019年10月

(掲載日を変更しました:10月30日→10月31日)

集団討議が個人の間違いを増幅させることのほうが多いことは、繰り返し言及されている。

一般的に言って、集団は討議の結果、討議前の傾向をさらに極端にする。熟議の最大の作用は、集団内の多様性を押しつぶし、意見の違う集団間の溝を深くすることだ。(100ページ)

この本では、リベラルな市民と保守的な市民とに社会的な問題を討論してもらったところ、両グループの考えの違いが大きくなった実験例が示されている。さらに人は集団で討論させると、「多数の答えが誤りだったり、なぜ誤りであるかもはっきりわかっているときでも、人は多数に同調する傾向がある(36ページ)」こともわかっている。

ここで、話は「集団思考(グループシンク)」につながる。これはアーヴィング・ジャニスが考え出した概念で、集団は画一化し、互いに検閲しあう方向に向かうというものだ。ジャニスは正しかった。多くの場合、官民問わず集団が失敗するのは、集団で議論したにもかかわらずではなく、まさに議論したゆえの結果である。(9ページから10ページ)

だから「集団の判断を予測したければ、みんなが話し始める前の多数意見はどうだったかと質問するだけでいい(38ページ)」ということになる。

集団の仲間意識が強いほど、状況は悪化する。同じ偏見を抱いている可能性が高くなり、平均的意見も同じ偏見を持つことになる。さらに、外からの意見も取り入れなくなる。「バカバカしい、良くない、誤っていると思っている[他の]集団に属している人間が言うことにわざわざ耳を傾けなどするだろうか」。外部の意見は逆効果になり「その反対が正しいと思うことが多いだろう」としている(104ページ)。

著者らは、熟議がうまくいくには心配性のリーダーと多様性が必要だとし、「集団を賢くするために必要なこと」として次の8項目を提案している。ただしこの提案を実行したからと言って、集団がかならず賢くなるわけではない。(124ページから125ページ)
  1. 好奇心旺盛で、自らは沈黙するリーダー
  2. 批判的思考クリティカル・シンキングを「プライミング」する
  3. 集団の成功を重視する
  4. 役割を分担する
  5. 視点を変える
  6. わざと反対意見を述べる
  7. 敵対チームレッド・チームを作る
  8. デルファイ法
リーダーが最初に意見を表明すると、メンバーはその意見に同調しやすい。だから「リーダーは始めに自分の意見を鮮明にしないでおく(127ページ)」ことが有効である。逆に反対意見に対しても同調的に対応することで、多くの多様な意見を引き出すことができる。リーダーが「まだ出てきていない情報はないかを確かめるために短時間のミーティングを開くだけでも役に立つ(127ページ)」。サンスティーンは政府で働いていたとき、15分に時間制限してミーティングをしていたそうだ。
(この項続く)

(掲載日を変更しました:10月29日→10月30日)

瓶に入った豆の数を当てたり、牛の体重を当てたりするような、個々の人が独立して数を推定できるような問題の場合、全員の平均値をとると真の値に非常に近い値が得られる。これはジェームズ・スロウィッキー『みんなの意見は案外正しい』(角川文庫)で強調されていたことであり、この本でも述べられている。18世紀に、集団がいかにして個人の判断を集約するかを研究したコンドルセ公爵は、次のような仮定を満たすならば、メンバー個人が正解を選ぶ確率が50%を少しでも越えれば集団が正解を選ぶ可能性が100%に近づくという定理を見出した。
  1. メンバーは自分の票が決定的な意味を持つかどうかを気にしない
  2. メンバーは他のメンバーの行動に影響を受けない
  3. 一人のメンバーの正答率は、他のメンバーの正答率とは統計的に無関係である
  4. (179ページ)

もちろん、個々のメンバーの正答率が50%を下回るようであれば、集団が正解を選ぶ可能性は逆に0%に近づいて行ってしまう(183ページ)。だからむやみに平均値を信頼すると大きな間違いが起こる。

コンドルセもこの点は承知していて、「投票者に知識があることが求められる。特に、決定すべき問題が複雑であればあるほど、より高い知識を持っていることが肝心だ」と述べている。
[中略]「多数の人間で構成される議会には有識者だけが集まっているわけではない。多くの事案について無知で偏見を持った人間が集まっている可能性のほうが高いかもしれない。従って、多くの議題において、各投票者の正答率が50%以下であることが考えられる。つまり、議会では人数が多ければ多いほど、間違った決定を下すリスクにさらされることが多くなる。」(186ページ)

コンドルセは「民主制を知識のない人々に任せるのは危険だ」としたという(186ページ)。

このように多数決のような統計的手法で結論を出す集団を著者らは「統計集団」と呼んでいる。それに対し、話し合いで結論を出す集団が「熟議集団」だ。ところが熟議集団についても著者らの評価は厳しい。「集団討議は、個人の間違いを取り除くことはできず、逆に増殖、増幅させることのほうが多い(68ページから69ページ)」と述べる。

著者らは集団が失敗する要因として、次の4つを挙げている。

第一に、集団はメンバーの間違いを正すことはおろか、その間違いを増幅してしまう。第二に、集団は群れとなり、メンバーは最初に口を開いたり、行動を起こした人間について行ってしまう。たとえ、その発言や行動が不幸な、おぞましい、悲劇的な方向に導くものであってもだ。第三に、集団は極端に走る。たとえば、異常なほどの楽観論を抱いている人たちは、互いに話し合うことで、それに輪をかけて楽観的になる。第四に、集団のメンバーは、共有する情報の重要性を強調するあまり、共有していない情報をないがしろにする。その結果、一人あるいは少数の人間だけが持っている、耳障りでも決定的な情報を活用することができない。(21ページ)

危険性を回避するには、この4点のそれぞれを意識して、それに対する対策を立てる必要がある。

(掲載日を変更しました:10月28日→10月29日)

サンスティーン、ヘイスティ『賢い組織はみんなで決める』(NTT出版)を読了した。サンスティーンは法学者・行動経済学者で、2015年現在、ハーハード大学の「行動経済学・公共政策プログラム」の運営責任者だという。ヘイスティは集団の意思決定を専門とする心理学者で、シカゴ大学の行動科学教授だそうだ。

この本は学術書というより、ビジネスマン向けの行動経済学(行動科学)入門書と言ったほうがいい。語り口も冗談を交えた軽いものだし、取り上げる話題もバスケットボールを例に取るなど、堅苦しくない。翻訳も良かった。翻訳者の田総恵子は「翻訳家」と紹介されているが、国際関係論を教授する大学教授で外国語大学出身であり、政治学が専門分野のようだ。しっかりしたバックグラウンドを感じさせる翻訳だ。

この本では、集団の行動科学が取り上げられている。今まで個人の行動に関する本は何冊も読んだが、集団の行動に関する本は読んだことがなかったので面白かった。驚くような事実はないが、よくまとまっているので、実際に組織を運営したり組織で意思決定したりする人には有用だろう。

サンスティーンといえば熟議やナッジが有名なのだろうと思うが、この本では話し合いの欠点について触れていることが印象的だった。この本でもっとも重要な指摘は「集団は個人の間違いを増幅してしまうことのほうが多い(4ページ「はじめに」)」だろう。もちろん「集団は個人の間違いを正すことができる(5ページ)」のだが、それには「ちょっとした手段や技術の助けを借り」なければならない。これについては後述する。

サンスティーン(Sunstein)はYouTubeではサンステインと発音されている(https://youtu.be/uCfq_ay8J6Y)。なぜ実際の発音と異なる表記が使われているのか。私は、当初サンステインとして紹介されたのに、「テイ」を「ティ」と読んでしまい、それが日本の表記として定着したのではないかと思う。私がそのように思うのには理由がある。

日本では病棟の面会などに使うある程度の広さを持った空間を「ディールーム」と呼ぶことが多い。いつからその名前が定着したのかわからないが、「ディールーム」という言葉には、元になった言葉、いわば「原点」があることは間違いない。そして「ルーム」という部分からみれば、それは英語だろう。実は英語ではそのような空間を「デイルーム」と呼ぶことが一般的である。それであれば、「ディールーム」の原点は「デイルーム」であると推定して間違いないだろうと思う。では「デイルーム」がなぜ「ディールーム」になったのだろう。私はカタカナ表記の読み違いが始まりではないかと思う。

話は飛ぶが「アルコール」は、欧州諸言語では「アルコホル」である。実際、日本の旧仮名遣いの書物を見れば「アルコホル」と書いてある。しかし旧仮名遣いの場合、この文字列を音読すると「アルコール」になる。「こほり(氷)」は「コーリ」と発音されたのだから、当然のことだろう。つまり旧仮名遣いでは「コホ」という音列は表記できなかった。さらに余談となるが、現代仮名遣いでも「こう」という音列は表記できない。「格子」と「仔牛」は、発音上は区別されることがあるのに、かな表記では区別できない。

話を戻せば、「デイルーム」を「ディルーム」あるいは「ディールーム」と文字で覚えたために、何となく新語のような「ディールーム」が定着したのではないだろうか。同様に、英語に接することがない人びとが「サンステイン」という名前を見たときに「サンスティン」と読んだことがきっかけで正確な音訳(transliteration、正確にはtransphonationと言うべきか)でない表記が定着したのではないかと思う。アクセントが「サン」の部分にあり、「ステイン」が軽く(あいまいに)発音されることも理由のひとつだろう。

(掲載日を変更しました:10月27日→10月28日)

最後に、彼が述べるマスメディア批判に触れておこう。彼は「マスメディアの気まぐれを指摘することも、私たちを非常に不愉快にさせる一部のメディアについて何が気に入らないのかを述べることも、しようと思えばいつだってできます(152ページ)」と述べている。

メディアは、私たちが公共的な意思決定過程において事実や知識を得る際の主要な情報源です。そのメディアに重大な問題がある、ということは誰でも合意してくれるのではないでしょうか。(152ページ)

その原因を彼は次のように推測する。

おそらく最も根本的な難点は、現時点のニュースや流行がこの先どうなるのかを、メディアが滅多に考えないことでしょう。メディアは「報道価値」のあるもの、つまりセンセーショナルなもの、新奇なものを強調します。この点ではテレビは旧来のメディアよりずっとたちが悪く、犯罪者ですらあります。というのは、テレビは一地方の世論を誘導するばかりでなく、国全体、あるいは世界が注意を向ける「焦点」を作り出してしまうことがあるからです。(152ページ)

彼は米国の対中国外交政策を例にとり、「このような話題について正当な見解を持つために人が本当に知らねばならないことは、中国の制度と歴史についての多少なりともの理解」であるのに、「メディアは、今日、今週と、何が行われているかを知らせることに忙し」く、必要な情報を与えていないという(153ページ)。

現代日本で言えば、韓国の政治状況について、法相の曺(チョ)国(グク)氏の辞任について「タマネギ男」などと揶揄する報道に終始し、なぜ文(ムン)在寅(ジェイン)大統領が彼を起用したのかに切り込まない主要メディアの状態がまさに彼の指摘する状態だろう。

彼は、私たちの注意力が限られているために、たくさんの情報を与えられても、処理しきれずに忘れてしまうのが問題だという。全部覚えていられれば、次から次へとニュースを与えられても問題ない。しかし、「注意力の希少性(153ページから154ページ)」ゆえに、人は大事な問題を忘れていってしまう。


私たちの社会は情報が溢れているという不都合はよく知られていますが、一過性の情報や束の間の知識から身を守るために慎重に戦略を立てている人は、ほとんどいません。ニュースを「そこにあるから」という理由だけで受け入れる必要などないということは、多くの人にとって奇異な考えのようです。(154ページ)

この講演は1982年のものだが、メディアリテラシーの重要性は30年以上経った現在、いっそう大きなものになっている。

(掲載日を変更しました:10月26日→10月27日)

第4は「進化論的適応としての合理性」だ。このモデルはこの本で重要な位置を占めており、第2章全体を使って説明されている。

ダーウィン説進化論では、変異と選択により進化が達成される。遺伝子が何らかの原因で変化し、変化した遺伝子を持った個体は環境と相互作用し、有利なものが選択され、不利なものは淘汰されていく。最終的に、環境に適合したものが生き残るが、それは目的を持って、ある特定の方向を目指して進化したわけではない。つまり、「合目的性」があるように見えても、それは見せかけのものである(この本では「かのように」理論として紹介されている)。また、環境も徐々に変化しており、進化が静的な環境への適応ではなく、環境との相互作用により双方向的に実現されていることも重要である。

行動理論によれば、合理的選択をするには、状況に適応できる行動を発見するために、多くの選択的な探索をする必要があります。もっとも単純かつ初歩的な探索のプロセスは、実行可能な行動がまず考案され、その適切さが検証されるというものです。合理性に関する行動理論における、このような考案(行動の発生)と検証(行動の選択)のメカニズムは、ダーウィン説の理論の変異-選択メカニズムとまったく同等なものです。(072ページ)

ここで著者は、生物の遺伝子に当たるものは社会や組織における何であるか、また進化的過程には長時間を要するが、それが社会的にどのような意味を持つか、環境の変化と進化との相互作用などについて述べている。いずれも興味深い議論だが、私が驚くような新しい知見や鋭い指摘はなかった。

ただ、第2章の最終部分で述べられている、進化は「最適化と安定性に導くものではない(114ページ)」という指摘は重要だと思う。つまり、進化は周囲の環境との相互作用によって実現されるので、その最適性と安定性は局所的なものであり、長い目で見れば一過性のものかもしれない。局所的に安定した状況を生み出す部分を「ニッチ」と呼んでいる。これは窪みという意味だが、そこに落ち着いたからといって、そこがいちばん低い場所(いちばんいい場所)とは限らないということだ。

北アメリカにイギリススズメが移入され、それが繁殖して自生種を駆逐した例を挙げ、彼は次のように述べている。

もたらされた外来種が繁殖できたということは、進化論的なメカニズムが不完全であり、そのメカニズムでは最適な状態に達することができないということの強力な証拠です。相対的に適応度の高いものが生き残るのですが、それが絶対的な意味で最も適応度が高いと仮定する理由は何もありません。それどころが、「最大の適応度」という言葉が何を意味するのか定義が可能だとする理由もまったくありません。(114ページから115ページ)

彼は、進化は「探索が目的である(116ページ)」とまで言い切っている。さらに、環境に働きかけて「ニッチ」を増やすことで社会が豊かになると暗示している。

↑このページのトップヘ