昨日のブログには、体罰の連鎖について、体罰を容認する認識が連鎖を生むのではないかという考えを書いた。だが、連鎖を生み出すメカニズムとしては、心理的外傷や抑圧された感情が別の機会に衝動となって吹き出すということのほうがより重要で、より深刻な結果を生む。また、体罰を容認しようという気持ちは、体罰により自分の衝動を解放しようという無意識の欲求の表れかもしれない。
森田は読者から多くの手紙をもらうが、子ども時代にさまざまな苦痛を受けたある男性からの手紙の結びには、次のような一文があったという。
「大きな犯罪を犯して人々の注目を浴びたい。たくさんの人を殺してから自分も自殺する。私の存在証明は、そうすることでしか示すことができないのです。」(96ページから97ページ)
森田は「このような思いを私という特定の対象に向かって綴ったことで、この人はその分だけ、暴力への衝動を実行に移す可能性を減らしたのだと願いたいです」と書いている。痛切な願いだが、心情の吐露に治療的な効果があることを考えれば、この願いはある程度実現しているだろう。
森田は、怒りには2つのタイプがあるという。ひとつは単純な立腹。もうひとつは「怒っているけれど泣きたい気持ちもある」というような「複雑な感情としての怒り」だ。
二次感情としての怒りとも呼ばれます。自分から他者への攻撃行動をもたらすのは、このタイプの怒りです。私はこのタイプの怒りを「怒りの仮面」と名付けました。(63ページから64ページ)
本来は別の感情なのだ。自分の痛いところを突かれたり、自分の思い出したくない過去を思い出させられたりして怒る。別の感情が怒りという仮面をかぶって現れるという意味だろう。
DV加害者は「妻が俺を怒らせる」とよく言います。しかし本当は、妻の言動が夫の怒りを刺激したのではなく、仮面の裏側の感情を刺激したのです。その感情はその人の傷つき体験がもたらしたものなので、通常は抑圧されていますが、わずかの刺激に反応し膨れ上がります。(69ページ)
この「怒りの仮面」は社会的認識から生じることもある。
「男は強く、女は優しく」を信奉する社会が男性、男子に表現を許している感情がひとつだけあります。怒りです。悲しさ、寂しさ、怖さを口にすることは女々しいが、怒りを表現することは雄々しいのです。(127ページ)
森田は、怒った人に対応するには「その怒りの顔は仮面」だと考えることが有効だとしている。
「あんな怖い顔をしているけど、あれは仮面に過ぎない」と思ってみてください。そして、その裏には何があるのかと怒りの仮面の裏をのぞいてみます。すると、そこには泣いている顔に代表されるような感情、たとえば恐れや不安、悔しさ、さみしさ、絶望、見捨てられ不安などが混在して抑圧されていることが見えてきます。(68ページから69ページ)
もちろんこれは即効性のある対処法ではない。怒っている人は裏の感情を抑圧しているのが普通なので、その感情を指摘しても否定するか、ますます怒るだけだ。だが、この考えを元に相手と対話することが可能であれば、相手を変えられる可能性はじゅうぶんにある。そのときに重要なのは、すべての感情が大切であり、良い感情も悪い感情もないことを知り、すべての感情をありのままに受け入れ、認めることだと訴える(73ページ)。