阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2019年09月

昨日のブログには、体罰の連鎖について、体罰を容認する認識が連鎖を生むのではないかという考えを書いた。だが、連鎖を生み出すメカニズムとしては、心理的外傷や抑圧された感情が別の機会に衝動となって吹き出すということのほうがより重要で、より深刻な結果を生む。また、体罰を容認しようという気持ちは、体罰により自分の衝動を解放しようという無意識の欲求の表れかもしれない。

森田は読者から多くの手紙をもらうが、子ども時代にさまざまな苦痛を受けたある男性からの手紙の結びには、次のような一文があったという。

「大きな犯罪を犯して人々の注目を浴びたい。たくさんの人を殺してから自分も自殺する。私の存在証明は、そうすることでしか示すことができないのです。」(96ページから97ページ)

森田は「このような思いを私という特定の対象に向かって綴ったことで、この人はその分だけ、暴力への衝動を実行に移す可能性を減らしたのだと願いたいです」と書いている。痛切な願いだが、心情の吐露に治療的な効果があることを考えれば、この願いはある程度実現しているだろう。

森田は、怒りには2つのタイプがあるという。ひとつは単純な立腹。もうひとつは「怒っているけれど泣きたい気持ちもある」というような「複雑な感情としての怒り」だ。

二次感情としての怒りとも呼ばれます。自分から他者への攻撃行動をもたらすのは、このタイプの怒りです。
私はこのタイプの怒りを「怒りの仮面」と名付けました。(63ページから64ページ)

本来は別の感情なのだ。自分の痛いところを突かれたり、自分の思い出したくない過去を思い出させられたりして怒る。別の感情が怒りという仮面をかぶって現れるという意味だろう。

DV加害者は「妻が俺を怒らせる」とよく言います。しかし本当は、妻の言動が夫の怒りを刺激したのではなく、仮面の裏側の感情を刺激したのです。その感情はその人の傷つき体験がもたらしたものなので、通常は抑圧されていますが、わずかの刺激に反応し膨れ上がります。(69ページ)

この「怒りの仮面」は社会的認識から生じることもある。

「男は強く、女は優しく」を信奉する社会が男性、男子に表現を許している感情がひとつだけあります。怒りです。悲しさ、寂しさ、怖さを口にすることは女々しいが、怒りを表現することは雄々しいのです。(127ページ)

森田は、怒った人に対応するには「その怒りの顔は仮面」だと考えることが有効だとしている。

「あんな怖い顔をしているけど、あれは仮面に過ぎない」と思ってみてください。そして、その裏には何があるのかと怒りの仮面の裏をのぞいてみます。すると、そこには泣いている顔に代表されるような感情、たとえば恐れや不安、悔しさ、さみしさ、絶望、見捨てられ不安などが混在して抑圧されていることが見えてきます。(68ページから69ページ)

もちろんこれは即効性のある対処法ではない。怒っている人は裏の感情を抑圧しているのが普通なので、その感情を指摘しても否定するか、ますます怒るだけだ。だが、この考えを元に相手と対話することが可能であれば、相手を変えられる可能性はじゅうぶんにある。そのときに重要なのは、すべての感情が大切であり、良い感情も悪い感情もないことを知り、すべての感情をありのままに受け入れ、認めることだと訴える(73ページ)。

子どもに対する保護者の体罰は、「ほとんどが怒りの爆発」だという。この本では、高齢者に対する介護者からの体罰については触れられていないが、高齢者に対する体罰も同様だろう。子どもに虐待をおこなった経験のある親の語りは読んでいて辛い。

「何度言っても言うことを聞かないので、あんまり腹が立って頬を思いっきり叩いたら、子どもは泣くでもなく、怖がるでもなく、謝るでもなく、固まってただ私の目をじっと見るのです。その子どもの反応に怒りが一気に燃え上がりました。泣いてごめんなさいを言うまで叩き続けないと気がすみませんでした。」(48ページ)

森田は爆発のメカニズムを「自分のした体罰行為が自分の怒りを増殖する」と説明する。

体罰行為に対する子どもの反応に刺激を受けて、保護者はいっそう怒りをつのらせ、その怒りは殴れば殴るほど増殖し、抑えがきかなくなります。(48ページから49ページ)

暴力に至らなくても、怒って大声を上げることで怒りが増すことは、私にも経験がある。人間が「泣く」ことについて、悲しいから泣くのではなく、涙を流すから悲しくなるのだという観察がある。つまり動作や行為が感情に先行するということだ。怒っているうちに激昂するというのも、同様のメカニズムなのかもしれない。

体罰を受けた子どもたちに話を聞くと、多くが「自分が悪かったからしかたがない」と言うそうだ。これはDV被害者が「私が悪かったから」と言うのと同様の構造のように思える。そして、この「悪かったからしかたがない」という捉え方が、体罰の連鎖を生むのだろう。体罰を受けてもしかたなかったと思う子どもは、おとなになったときに「悪い子なのだからしかたがない」と子どもに体罰を加えることになる。

森田がある子ども(Aくん)に、「[体罰を受けたとき]どんな気持ちになった?」と聞いたところ、同じ答えが返ってきた。「誰が悪かったかを聞いているのではなく、そのときあなたの気持ちがどんなだったかを知りたいんだけど」と聞き直すと、しばらく考えてから「すごく怖かった。その後は、やたら悔しくなった」と答えた。

親や教師から体罰を受けた中学生数十人に同じ質問をしてまわったことがあります。共通していた反応のひとつは、Aくん同様の皆、そのときの気持ちを言葉にすることに時間がかかったことです。(50ページ)

体罰に関して、被害者は社会的認識(悪い子は体罰を受けてもしかたがない)を優先させ、自分の感情(怖さ、悔しさ)を抑圧する。しかし、その抑圧された感情は、行動や思考にゆがみをもたらす。

恐怖や不安の感情は[中略]人に聴いてもらって表現しないといつまでも心の奥底にとどまって、行動や思考にゆがみをもたらし、それはしばしば自分か他者への暴力になります。(26ページ)

だから、体罰の体験を語らせ、感情に気づかせ、それを吐き出させることが治療にもなる。難しい治療ではない。しかし、子どもが安心して話せる環境を作ること、そして体罰が繰り返されないようにすることは、場合によっては非常に難しい。

調査によれば「日本の10代の若者のおよそ1割が自傷をしています」という。しかし「周りのおとなの大半はそのことに気づいていません」(67ページ)。感情の言語化ができない場合に自傷行為が起きやすい。おとなが子どもの葛藤に気づかないのは、おとなが無意識に葛藤を生み出しているからだろう。まずおとなが自分の感情に気づくことが必要なのだと思う(だがそれは簡単なことではない)。

森田は、体罰には6つの問題性があると指摘する。「体罰は問題ばかりで何ひとつよいことが」なく、「身体的虐待は体罰がエスカレートしたもの」だという(158ページ)。彼女の指摘する問題性は次のとおり。

1 体罰は、しばしばそれをしているおとなの感情のはけ口である
2 体罰は、恐怖感を与えることで子どもの言動をコントロールする方法
3 体罰は、即効性があるので、他のしつけの方法を使えなくなってしまう
4 体罰は、しばしばエスカレートする
5 体罰は、それを見ている他の子どもにも深い心理的ダメージを与えている
6 体罰は、時には取り返しのつかない事故を引き起こす
(目次より、抜粋して引用)

森田は、戦争についても6つの同様な問題性を挙げているが、ここではまず体罰について書きたい。

体罰が感情のはけ口であるというのは、非常に重要な指摘だ。

「指導に熱心なあまりつい手が出た」とおとなは理由を付けますが、実のところ多くの場合、体罰が起こるのはおとなの感情が暴力という形で爆発するからです。(159ページ)

スポーツで言えば、きちんと練習しない、試合に負けたなど、さまざまな「自分の意に沿わない」事態に直面して感情的になり、怒りが爆発して体罰に及ぶ。DVが有形の暴力行使だけを指すのではなく、暴言や暴力行為を見せることも含むことを考えれば、異常に長時間におよぶ練習や説教も体罰の一種であることに間違いない。指導者がアンガーマネジメントを学べばある程度変わることができるが、自分がそうされてきたので同じように指導しているという人が多いのが問題だろう。アンガーマネジメントは表面的な解決にしかならない。

体罰は即効性があるので、他のしつけの方法を使えなくなってしまうというのも、重要な指摘だ。だが、この即効性は表面的なものだ。

50年以上の期間に16万人の子どもへの体罰の影響を調査した米国のメタ分析研究の結果によると、体罰をすればするほど子どもは反社会的行動、攻撃性、メンタルヘルスの問題、認知の困難さを経験するようになることが明らかにされています。(14ページ)

つまり、体罰を受ければ子どもは一時的に、あるいは親や指導者の前では体罰を避けるように振る舞うかもしれないが、それは子どもの心からの態度ではない。子どもは、かえってゆがんだ思考を学び、抑圧された感情を抱えることになる。そしてその抑圧された感情は、いじめや暴力を生み出すもとになる。

森田ゆり『体罰と戦争 — 人類のふたつの不名誉な伝統』(かもがわ出版)を読了した。森田は、奥付によれば、1981年から米国カリフォルニア州で虐待防止やダイバーシティ対応トレーニング(人種差別、セクハラ、人権侵害などに対応するトレーニング)に従事し、その後1997年からは日本で、多様性、人権問題、虐待、DV、しつけと体罰、性暴力などを対象に研修活動を続け、被害者と加害者の復帰プログラムも運営している。

体罰と戦争は、対象も規模も大きく異なるが、暴力である。体罰と戦争には次のような8つの共通点があると森田は指摘する。

共通点の1 それがよくないことだとわかっていても、やめられません
共通点の2 大義名分があります
共通点の3 死傷しトラウマに苦しむのは、社会的に弱い人々です
共通点の4 深刻な人権侵害です
共通点の5 「時には必要」と考える限り、なくなりません
共通点の6 絶対にしないと誓い、その宣言実行システムが必要です
共通点の7 「不安」というあつかいの難しい感情をもたらします
共通点の8 どちらにも共通する「怒り」も、またやっかいな感情です
(目次より、抜粋して引用)

一般に、動物は同族の個体と、異性や縄張りをめぐって死闘を繰り広げ、場合によって相手を殺してしまうことがあるが、むやみに同族個体を殺すことはない。例外はチンパンジーくらいなものだろう。ボーム『モラルの起源』(白揚社)によれば、野生のチンパンジーの集団は他の集団を全滅させることもあるそうだ。縄張り意識が強いことが原因だそうだが、やりすぎるところが人間に似ている。

それに対し、ヒト(動物種としての人間)は、空腹や縄張りなどの(生理的)理由なしにヒトを襲い、殺害する。自然界の中では例外的に残忍な生物だと言っていいと思う。そのような行動の背後には強い感情がある。同族に対する憎しみや嫌悪といった感情もまたヒトに特有なものだろう。

体罰は、現在の日本にとって日常的な問題となっている。体罰と称する虐待により死亡する幼少児が後を絶たない。また学校でも、スポーツ界でも、体罰が明らかになることは多く、日本の社会に体罰が蔓延しているといってもいいだろう。私たちの社会が体罰を認めない社会になることが必要だ。それには私たちの価値観を変える必要がある。

一方で戦争は、今の日本で暮らす私たちにとって非日常である。私たちの生活はグローバル化しており、実はさまざまなところで今現実に戦われている戦争とつながっているのだが、それを意識することは少ない。森田は米国で暮らしていた時期が長く、戦争は日常の延長だった。日本の政府が戦争への準備を着々と重ねていることは周知のことだろうが、それでも日本では戦争が日常になりえていない。戦争が日常になったときは、すでに手遅れだ。戦争への対処と体罰への対処は、方法が異なる。戦争から遠ざかるには、価値観の転換よりしたたかさを身につけることではないかと思う。

はじめに、屈折語、膠着語、孤立語という用語について説明しておきたい。説明をWikipediaから要約して引用する。

屈折語:文法的機能を表す形態素が、語の内部に分割できない形で埋め込まれる言語。 古代、中世のラテン語やギリシア語、現代のロシア語やドイツ語、アラビア語などが挙げられ、ヨーロッパ言語の多くがこれに分類される。 ただし、実際には屈折語の多くが膠着語・孤立語などの特徴を併せ持っていると考えられている。
膠着語:ある単語に接頭辞や接尾辞のような形態素を付着させることで、その単語の文の中での文法関係を示す。
孤立語:接辞などの形態論的手段を全く用いず、1語が1形態素に対応する言語。

日本語は膠着語、中国語は孤立語に分類される。

私が持っている英語の歴史に関する本はThomas Pyles『The English Language — A Brief History』(英宝社)という1973年刊の古い本だけしかない。この本によれば、古英語(Old English)は西暦450年頃から1100年頃の英語を指すようだ。古英語には動詞の活用も名詞の格変化も存在した。1100年頃から1500年頃の400年間の英語は中古英語(Middle English)と呼ばれ、この本によれば「移行期(a time of transition)」だと言う。デーン人の征服王朝が成立したのは1016年なので、そこから英語の一大転機が始まったことがわかる。1066年にはノルマン・コンクエストによりノルマン人に征服され、1154年にはフランス系の王朝であるプランタジネット朝が成立する。中古英語の時代には仏語の影響で英語が大きく変化した。したがって、この本によれば、中井の「古英語が2、3世紀のうちに孤立語となったのは、デーン人征服王朝の下である」という記述は不正確で、始まりはデーン人による征服かもしれないが、50年ほどで王がデンマーク人からフランス人に代わり、英語の大きな変化の主な部分はノルマン・コンクエストにより起こったと言っていいだろう。ただし「支配階級は被支配階級の言語の格変化などをわざわざ覚えようとしない」という指摘は正しいかもしれない。

彼は「孤立語は奴婢の言語であった歴史の傷跡」とも述べているが、征服者であったデンマーク人の言語も、デンマーク語と同系であるスウェーデン語も、格変化や動詞活用の多くを失っている(参考:デンマーク語 http://el.minoh.osaka-u.ac.jp/flc/dan/index.html、スウェーデン語 http://el.minoh.osaka-u.ac.jp/flc/swe/index.html)。名詞の格変化や動詞の活用が失われる(中井の言う)「孤立語化」は、征服以外のメカニズムでも起こりうることが推測される。

私は多民族に話される交易用の共通語になることで言語は単純化されるという説を聞いたことがある。港町の方言は省略の多い単純なものになるというのだ。デンマーク語はヴァイキングが勢力を拡大したために単純になり、英語は大英帝国が世界を支配したために単純になったとのことだったが、この説は時代的に言ってもあてにならない。スペインもポルトガルも世界の多くを支配したが、言語は単純化されていない。そもそもローマ帝国がヨーロッパを支配したときも、ラテン語はそれほど変わらなかった。

念のために付け加えておけば、現在の英語は孤立語には分類できない。名詞は複数語尾、所有格など過去の変化の名残を残しており、動詞も三人称単数現在のみだが活用を残しているからだ。それはデンマーク語もスウェーデン語も似たようなものである。「孤立語となった」というのは不正確で、「活用の大部分を失った」と言い換えたほうがいいだろう。

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