阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2019年09月

この本のかなりの部分がマイケル・ジャクソンのことに割かれている。森田によれば、マイケルは自分が虐待を受けていた過去があることから、子どもの虐待防止に真剣に取り組んでいたという。彼女は、彼にかかわるさまざまな事件の経緯を説明し、彼の詩や著作の内容を解説することで、彼に関する誤解を解き、彼がいかに素晴らしい人間であったかを訴えている。

だが、森田は米国にいたにもかかわらず、生前にはマイケル・ジャクソンのことを気に留めていなかった。「Beat It」が流行った1982年頃、彼女は小中学校で人権と暴力防止を教えるCAPプログラムのワークショップをする仕事に就いていた。

Beat It のビデオは最初から最後まで恐ろしげなギャングたちがけんかをしたり、ナイフで闘ったり、踊ったりしている中を、マイケルが「ビートイット、やっちまえ」と歌っているギャング礼賛の曲なのだと思って顔をしかめていました。
今になって知ったことですが、マイケルはその曲で、CAPプログラムと同じ非暴力のメッセージを子どもとティーンに発信していたのです。(232ページ)

自伝にも書いてあるそうだが、「Beat it」は若者のスラングで「逃げ出せ、ほっとけ」の意味なのだ(ちなみに、ネット英和辞典で検索すると「〈話〉すぐに出て行く[立ち去る]」などと表示された)。日本でも誤解されていたようだし、私も知らなかった。

マイケルの死後、「Leaving Neverland」という題名の、マイケルに性虐待を受けたと訴える男性2名の「ドキュメンタリー」がHBOとChannel14の合同製作映画として作成されたという。この2名の男性は、性的虐待を受けたことはないと過去に証言したことがあるるのに、最近になって手のひらを返して性虐待で遺産管理財団を訴え、請求棄却判決を受けているという。森田はこの映画について「HBOが死体に群がるハゲタカだとすれば、監督兼プロデューサーのダン・リードはハイエナで、2人の男性はまるでハエのようにマイケル・ジャクソンの体を這(は)いずり回り、人間の尊厳を貶め続けるのです(213ページ)」と、口を極めて非難している。

マイケルの「分かち合おう」とのメッセージが多くの慈善チャリティの呼びかけと違うのは、「自分のためにする」「自分の命を救うためにする」という視点を常に揺るがなく持っていることです。(226ページから227ページ)

We've had enough(もうたくさんだ)は、The Ultimate Collection(2004)の中に収められているストレートな反戦歌です。(233ページ)

私も昔の森田同様、マイケル・ジャクソンの歌の歌詞に関心を持ったことがなかった。時間を作って調べてみようと思う。だが、本当の問題はこれからどうするかだ。過去がどうであったかではない。(この言葉が「逃げ」にならないように注意していきたい。)

米国から傷病兵に関する資料を返還された防衛省は、それを専門的に分析検討したのだろうか。分析したにしても、その結果を公開していないのであれば、分析が今後の政治に生かされる可能性は低い。民主主義社会では政治は国民が動かすべきものだから、国民が知らなければ政治には反映されない。その点、米国社会はよく機能しているようだ。

米国ブラウン大学のワトソン・インスティテュートは2011年に学者、法律家、人権実践家、医師ら35人のチームでCosts of War(戦争の代価)プロジェクトを立ち上げ、9・11以降のアメリカの主導するイラク、アフガニスタンでの戦争とパキスタンとシリアにおける戦争関連暴力の実態調査を続けています。(12ページ)

Costs of War(https://watson.brown.edu/costsofwar/)のホームページを見れば、その目的は文字どおり戦争の総コストを明らかにし、今後の民主的議論にデータを提供することであると明言されている。戦争に対して賛成でも反対でもなく(もちろん反対しているように思えるが)客観的な事実の収集をおこなっている。大学が、独自にこのような研究機関を立ち上げ、成果を国民に向けて発信し続けている。このような態度は大いに学ぶべきだ。

この違いは社会が戦争をどう捉えているかの違いによるのだろう。米国では戦争は外交手段のひとつである。もちろん「戦争は外交の失敗」という考え方をする人もいるだろうが、戦争するという選択肢を持っていることを抑止力と考えているはずだ。だから、戦争の利害得失(コストとベネフィット)を論じることになるし、「戦争が悪い」とはならずに「戦争を選択したことが悪い」という主張になる。

それに対し、日本人は戦争に対して不必要に感情的であるように思う。まるで喧嘩でもするように、戦争の話をする人がいる。相手がいうことをきかないから「殴ってやろう」というのと同じレベルで、他国が交渉に応じないから「戦争しよう」と言う。こんな幼稚な考え方では負けるに決まっている。戦争には長年にわたる準備が必要だ。軍備だけの話ではない。戦争を維持するための「体力」が必要なのだ。そして体力を消耗する戦争を避けるための交渉力と粘り強さ、計算高さとしたたかさが必要だ。日本人は交渉ごとに弱く、戦争には向かないと感じている。

ちなみに、2003年に米国がおこなったイラクへの先制攻撃は国際法上問題のあるものだったが、「アメリカ連邦議会は、たった1票の反対で圧倒的に支持した」という(32ページ)。

たった1人反対を主張したのは、私の街カリフォルニア州オークランド市地域を代表するアフリカ系の女性議員バーバラ・リーでした。
我が家近くの彼女の事務所には、批判や脅迫の電話が殺到し大騒ぎでした。それでも彼女は動ずることなく、なぜ反対したのかをメディアや支持者に語り続けました。(32ページ)

正しいと思ったことを発言するという米社会に根付いた習慣が米国の民主主義を支えているのだろう。これは米国のメディアについても感じることだ。大統領と大手メディアが戦っている現状を、大手メディアが首相官邸に翼賛的になびいている日本の現状と対比すると、民主主義を支える言論の力の差を強く感じる。

戦争について述べておこう。森田は「戦争の6つの問題性」として次の点を挙げている。
  1. 戦争は、戦争がもたらすばく大な利権欲求のはけ口であることが多い
  2. 戦争は、不安と嘘を蔓延させることで大衆の言動をコントロールする
  3. 戦争は、他の外交解決方法はないと思わせる
  4. 戦争は、小さな武力衝突や攻撃がエスカレートし長期化する
  5. 戦争に巻き込まれた人々の身体的、心理的ダメージは計り知れない
  6. 戦争は、取り返しのつかない殺傷と環境破壊を確実に引き起こす
(目次より、抜粋して引用)
森田は意識して体罰と戦争を対比させているが、戦争の問題点は体罰の問題点と無理なく対応する。やはりどちらも人間の社会的暴力行為であるから、問題点が似るのは当然なのかもしれない。

中井久夫は『私の日本語雑記』の中で、「当時[1950年代]の戦争反省は実際は敗戦の反省で、敗因に科学と文化の低さが挙げられ、欧米モデルの文化国家建設がうたわれた。アジアについては語る人が少なく、情報も乏しかった。(139ページ)」と述べているが、現在の状況も同じようなものだろう。

日本が太平洋戦争と向き合っていないことは、海外の研究者からも指摘されているという。森田は次のように述べている。

[トラウマ治療と研究の世界的第一人者が著書の序文で]日本にはドイツなどと比べると戦争トラウマの研究がないこと、日本社会は、戦争記憶に向き合うことを戦後経済の高度成長にすり替えてきたと指摘し、「第二次世界大戦を構成した出来事の真実、起源、およびそれらがもたらした結果についての社会的な議論が一切欠如しているという点で、日本は非常に特異的である。」と書いていたことを覚えています。(178ページから179ページ)

日本において戦争トラウマの研究が少ない理由として、中村江里は『戦争とトラウマ』で次の3点を指摘しているという。

  1. 戦争神経症は死の恐怖に耐えられなかった軟弱な兵士であるとの戦時下の日本の精神医療における価値観が戦後も長く引き継がれたこと。
  2. 「戦中・戦後の資料焼却と隠匿によって、旧日本軍の戦傷病の全体像を示す統計すら残されていない」
  3. 傷病兵に関する資料は戦時中から「軍によって厳重に管理されていた」。敗戦によって米軍に押収され、1958年に日本に返却された資料も、防衛省の管轄下にあり、「一般の研究者は1980年代まで閲覧することができなかった」(186ページから187ページ)

森田は「このように戦争神経症患者への無知と偏見と嫌悪感とが、戦後になっても根強く存在したが故に、患者の苦悩に耳を傾ける専門家は少なく、また患者も口を開くことができなかったわけです(190ページ)」と述べているが、ハンセン病を放置した問題といい、戦争神経症を放置した問題といい、日本の医学の水準が基礎の分野では非常に高いのに、人間の尊厳に関わる部分においては非常に低いことを嘆かざるをえない。

おまけに日本軍では兵士に対する過酷な体罰があった。

清水は、兵士のPTSD発症の原因を6つに整理し、そのうちのひとつに「4 軍隊生活での私的制裁によるもの」をあげています。(47ページ)

私も小学校の教師から授業中に軍での制裁の話を聞いたことがあるが、それは凄惨なものだった。防衛省は日本軍における体罰の影響を公表したくなかったのかもしれない。

なお、戦争トラウマの治療は難しい。「帰還兵の多くは戦争で負ったトラウマだけでなく、育ちの中でのトラウマも含めて複合的に抱えているから(194ページ)」だ。

[米国では]戦争トラウマを負ってしまうような過酷な最前線で戦う兵士たちの多くは、貧困家庭出身の若い志願兵で、家庭や学校、育ちの中での暴力のトラウマを同時に抱えているものが少なくないと[ミネアポリスの退役軍人病院PTSD治療センターのサイコロジストは]説明します。(194ページ)

米国は徴兵制をやめ志願制にしたが、経済的な事情から志願せずにはおれない人びとが多いということだ。国籍を取得するために志願する人もいる。「だから徴兵制を復活させよう」という声もあるが、徴兵復活のための法案は2004年に否決されている。 

日本では幼小児の虐待死が続けて起こっているが、森田によればスウェーデンでは「1979年世界で最初にあらゆる場面での体罰禁止の法律を制定した」という(24ページ)。原典となる法律を探すと、該当するものは「Föräldrabalk」(http://rkrattsbaser.gov.se/sfst?fritext=1949%3A381)だが、これは1949年の制定だった。第6章に彼女が引用した文言がある(翻訳は森田)。

「子どもたちは、看護、安全、そして良い療育に対する権利を有している。子どもたちは一人格として、また一個人として尊重に基づき扱われ、体罰や他のどのような屈辱的な扱いも受けてはならない。」(24ページから25ページ)

詳細な改定履歴がわからないので、これが1979年に改定されたものであるのか、あるいは1979が1949の誤植であるのかは確認できなかった。ただし、この第6章は1983年に改定されている。

日本では民法822条(https://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=129AC0000000089_20180401_429AC0000000044#3037)が親権者の懲戒権を認めており、それが体罰の根拠となっている。これは明治時代の旧民法を引き継いだものであり、時代遅れの法律だ。日本の法律では、親に教育の義務を課しているが(憲法第26条、民法第820条、教育基本法第4条など)、これはすべての親がかならずしも子どもを大事に育てるわけではないという事実を前提にしたものだ。日本でも昔は農繁期には学校を休ませたり、収入がない場合に子どもを働かせたりしていた。今でもそれが当然な国もある。

親が子どもを虐待する可能性があるという事実を認めれば、虐待防止のためには民法822条の改正が必須なのだが、懲戒権を保持したいと反対する人びとも多く、改正の実現は遠そうだ。子どもを叱りつけることが必要なこともある。それは私も認める。ただし、体罰は森田が指摘するように欠点が多すぎ、得失を考えると損害のほうが大きい。当面は民法822条の「懲戒」の解釈を変え、体罰を含まないとする対応方法もあるのかもしれない。

統計によれば子どもを虐待死させるのは実母が多い。2019年8月に公表された「子ども虐待による死亡事例等の検証結果等について 第15次報告」(https://www.mhlw.go.jp/content/11900000/000533868.pdf)によれば、加害者は実母が約半数、実父が約4分の1である(表1-3-11-1)。しかし、実母による殺害は望まれない妊娠の結果が多く、0歳児の例が多い。3歳以上の子どもの虐待になると、実母は減り、実母の交際相手や実父など、男性が半分以上となる(表1-3-11-2)。実母の虐待はネグレクトが多いのに対し、男性からの虐待は身体的虐待が多いことを併せて考えれば、男性からの虐待は怒りにまかせた暴力であることが推定できる。

また、報道される虐待死の事例は、母親の交際相手や継父といった男性からのものが多いが、2018年3月に目黒区で発生した虐待死事件について森田は「あの事件の母親はほぼ確実に、夫から相当の暴力を受けていたDV被害者です(33ページ)」と推定している。虐待が実母から、あるいは実母と交際相手の両方からおこなわれたと分類されるケースでも、背景に男性から母親への暴力があり、母親が正常な思考を奪われていた可能性がある。つまり、男性が主導したケースは統計に現れるより多いのではないだろうか。

専門家も男性の関わりを重視している。たとえば、大阪母子医療センターの佐藤拓代は2017年に開催された第64回日本小児保健協会学術集会シンポジウムでの発表「虐待をする親の背景と理解」(https://www.jschild.med-all.net/Contents/private/cx3child/2017/007606/013/0535-0537.pdf)で、まず第一に同居男性からの「衝動的身体的虐待」を挙げている。このような男性の行動には動物としての本能の関与を指摘する意見もあるが、衝動が生じるきっかけは怒りであり、その背後にあるのは抑圧された感情である。法的な禁止や介入だけでなく、抑圧を解くトレーニングプログラムが必要だ。

児童相談所の組織を拡充し、親のケアもおこなえる、DVにも対応した家族ぐるみの長期間の支援がおこなえるような組織にすることができると良い。そうすれば森田が指摘する「多くの児相には[児を保護しても]その次のステップの支援がないために[児を家庭に帰すと]再虐待になってしまいます。(34ページ)」という問題の解決にもなる。

さらに、社会全体が問題の本質をもっと理解する必要がある。

警察は、夫の子どもへの暴力を止めなかった共謀容疑でどちらの母親も逮捕しましたが、母親はDV環境から抜け出し、残された子どものケアができるようになる支援が必要なのであって、母親の収監は子どもたちにダメージしかもたらしません。(35ページ)

母親を非難している芸能人もいるようだが、芸能人の発言を報じるのではなく、それに正しいコメントをつけるのがメディアの役目ではないか。

森田によれば、社会学者フィンケルホーは「性暴力は男性の社会化(male socialization)ジェンダー意識に起因している(141ページ)」と論じた。その論点は次の4つである。非常に長いが、重要な指摘だと感じたので、そのまま引用する。

  1. 女性は性的な愛情関係と非性的な愛情関係の違いをはっきりと区別させて学ぶのに対して、男性は性行為なしで愛情を表現する機会を持たされてこなかった。それゆえに男性は愛や親密さといった情緒的欲求を生行為を通して満たそうとする傾向が女性に比べると強い。
  2. 女性との性関係を持つことが、男性としてのアイデンティティの確立に重要だという意識を持たされてきた。それゆえに男性は女性にくらべて自己のアイデンティティが危機に陥ると性行為を通してそれを取りもどそうとする傾向がある。
  3. 男性は、性的関心、性的行為を精神的、情緒的関係なしに持つことができるように社会化されてきた。その男性の無機的に性行為を持ち得る可能性は、男性のポルノグラフィへの関心や子どもからも性的刺激を得ることができる事実に現れている。
  4. 男性は、最もふさわしい性的パートナーは自分より若く、小さく、弱い存在であるべきだと社会化されてきた。一方、女性は最もふさわしい性的パートナーは自分より年上で、大きく、強い存在であると社会化されてきた。性的虐待の加害者にとって子どもは彼らの性的パートナー、若く、小さく、弱い存在の延長線上にある。
(142ページ)

非常に示唆に富んだ指摘だと思うが、私はこの説に全面的に賛成するものではない。すべてが社会化によるものではなく、生物学的な基盤を持つ行動もあると考えるからだ。だが、私にとっては新しい視点であり、かなりの部分に賛成できる議論でもある。いずれ時を改めてフィンケルホーの理論について考察したいが、彼の「まず第一に男性は性行為をともなわない愛情と親密さに満ちた関係 — 男と男の友情や育児に携わる — を積極的に持つと同時に女性との平等な性関係を保つことを学ばなければならない」という言葉は正しいと感じる。

ただし、「子どもに性暴力をする加害者の約半分近くが、実は同じ子ども・ティーンズであるという統計的事実(76ページ)」があることを忘れてはならない。性暴力はかならずしも性的なものとは限らない。それが相手を貶めるもっとも効果的な手段であるために選択され実行されることもある。

↑このページのトップヘ