阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2019年09月

マグヌス・ヒルシュフェルト『戦争と性』(明月堂書店)を読了した。宮台真司が2013年10月にこの本について講演しており、その内容が巻頭に解説として収録してある。宮台は社会学者である。

編集部解題によれば、この本は1956年に刊行された『戦争と性』(河出書房、世界性学全集第1巻)の復刻版だ。宮台の解説によれば原著は4巻本で、この本は第1巻の翻訳であり、編集部解題によれば原著には数百枚の挿絵や写真があったものの1956年版にはその中の244枚しか掲載されず、さらにこの復刻版では「残念ながら[中略]頁数の都合など諸々の事情により、そのほとんどをカットせざるを得なかった」そうだ。したがって、この本で原著の全貌を知ることはできない。

文章は読みにくい。ドイツ語の構文をそのまま引き継いだ日本語になっていることが第一の理由だと思う。訳者は「訳序」で「できるだけ正確で分かりやすい日本語に移した(34ページ)」と述べている。たしかに文法的に正確に訳してあると思えるし、訳語の選択にも苦労しただろうと思う。だが、日本語としては論理を追いにくい文章になってしまっている。

読みにくさの第二の理由は、性に関する日本語の語彙が貧弱であることと、戦争に関する用語に私が馴染んでいないことである。たとえば、性的関係を持つことによって何がしかの利益を得ることに関する用語が乏しい。この本では「売淫」という言葉を使っており、現代であれば「売春」という言葉を充てるのだろうが、本来であれば、利益の種類(金、食料、便宜)などにより言葉を分けることが可能であるほうが厳密な議論ができる。さらに、それを職業としておこなうのか、非職業であるが継続しておこなうのか、あるいは単発的におこなったのかでも言葉が分けられるほうが望ましい。日本の近代社会では社会の表面には現れなくなった行為であるので、語彙が発達しないのだろう。

また、私は軍事に詳しくないので、軍事関係の用語の理解が思わしくない。たとえば前線の意味はわかっても兵站については具体的な実感が湧かない。このあたりも、この本を読み進むにつれて語のおおよその意味がわかってきたとは言え、読みにくいと感じる第二の理由の一部になっている。

宮台の解説は難しいが非常に良い。解説を読むだけでこの本の全貌がわかる。もちろん解説をきちんと理解するためには本文を読まねばならないが、まず解説を読むことでこの本の構成が把握でき、本文理解の助けになる。本文を読んだ後に解説を読み直せば、宮台の主張がより明確にわかる。

児には口唇口蓋裂があるが、手術はしないという。その理由を両親は次のように述べる。

桂子[母]は「別に私はその必要を感じませんでしたね」とあまり感情を込めずに答えた。
展利[父]の答えはまたもや意外であった。
「いやあ、顔を手術したら誰になっちゃうの? っていう感じでした」
「誰になっちゃう?」と私は思わず聞き返した。
「手術したら、朝陽[児の名]じゃなくなっちゃうような気がしたんです」(68ページ)

この両親、特に父親は、口唇口蓋裂も児の個性として受け止めているのだ。昨日も書いたが、発達の差異や身体的な差異をその人の個性として認めようという考え方があり、私もそれに同意している。しかし社会全体はまだまだそのようになっていない。その中で、この両親がきわめて自然にこの考え方をしていることは、驚きでもある。

彼らはまた、人工呼吸器の装着も考えていない。その理由を父は言葉を探しながら、次のように説明した。

「そこまでして……支配されたくないというか、振り回されたくないというか、人工呼吸器というのは、僕らには無縁なものと思っています。ただ、考え方は変わるかもしれない。でも今の段階ではそう思っています」(70ページ)

この「支配される」という言葉が面白い。それどころか、父は酸素も吸引もなしで朝陽を外に連れ出す。

「天気に合わせて抱っこで連れ出しちゃいますね。寒ければ何かにくるんで、出かけます。天気が悪ければ家の中で抱っこしてぐるぐる歩き回りますよ。添い寝しちゃうこともあるし。散歩の時、酸素は持って行きません。完全無視です。そのままぱっと行っちゃいます。家の周りの芝生の上を歩き回るんです」(47ページ)

母は病院受診などで外出するときは児の鼻の下にテープを貼る。ところが父はテープも貼らずに「さーっと出ていく」のだ。父は松永に「表情を変えずに、胸を張るでもなく、照れるでもなく」説明した。

「そうですね。人にどう見られるかが人生じゃないと思っています。見かけじゃありません。散歩に連れて行くと、朝陽は本当に嬉しそうなんです。なんだかね、顔の表情がほっこりするんです」(48ページ)

私にはこの父親が非常に魅力的な人物に感じられた。

もちろん、すべての人がこの父親のように感じ、振る舞えるわけではない。事実、母親は同じようには振る舞えない。それは当然のことだろう。私も、自分の子や孫に障害のある子が生まれた場合にどのように振る舞うのか、自信を持って言うことはできない。私はどのように振る舞うだろうか。そう考えるとこの父親がますます魅力的な人物に思えてくる。

主人公の児の家族の中で私がいちばん気にかけるのが、児の出生当時年長組だった兄のことだ。兄は下の子の誕生を大変楽しみにしており、父から重症の疾患に罹患していることを告げられるとうつむいて涙を流した。だが、試験外泊のときは大喜びではしゃいだという。両親はそれを見て精神的に少しずつ楽になっていき、「長男の笑顔がなければ、二日間の試験外泊は途中でギブアップだったかもしれない(63ページ)」と回想している。

だが、兄の気持ちは複雑だ。兄の行動を見ると、弟に対しやや手荒な行動をすることがあり、また弟の世話をしている親に飛びついたり叩いたりと、明らかに気を引こうとする行動をする。当然のことだが、心の中では弟に対する感情を整理できないでいる。松永は気持ちを聞き出そうとしたが、少し質問を続けると「うん」と「別に」しか答えなくなってしまった。松永も言うように、障害児がいると、家庭はどうしてもその児を中心に動くことになり、親が児にかかりきりになることもある。一般的にいって「きょうだい」は難しい立場に置かれる。この家族も、外出の予定を弟の発熱などでキャンセルすることがたびたびあった。小学生になった兄に松永が「夏休みはどこかへ行く?」と水を向けると「……朝陽が」とつぶやくように言って眉間にしわを寄せる。重ねて「でも行くとしたら、どこ?」と問うとフィールドアスレチックに行きたいと言い、その面白さを身振り手振りをまじえて熱心に語る。

その子どもの様子を見ていた母は、子どもが遊びに出かけるのを見送ってから次のように言った。

「照れ隠しだと思います、あの騒ぎ方は。本当の気持ちを喋ると泣いちゃうから」
そう言う桂子の瞳が少し潤んでいるように見えた。
「そうですか。やはり単純な思いではないんですね」
「お兄ちゃんは、よそで朝陽の話をすることはありません。先日、小学校の担任の先生と面談があったんですけど、一学期の間、お兄ちゃんが朝陽の話をしたことは一切なかったそうです。心の中のどこかで引っかかっているものが大きいのだと思います」(97ページ)

兄も自分に与えられた運命を自分の力で乗り切っていかねばならない。兄の心の中にある「内なる差別」を作り出すのは社会だ。社会全体が障害をひとつの個性として受け入れるようになることを願っている。

松永正訓(まつなが・ただし)『運命の子 トリソミー — 短命という定めの男の子を授かった家族の物語』(小学館)を読了した。松永は小児外科医で、現在は小児外科・小児科クリニックを開業している。
トリソミーというのは染色体異常の病気で、通常なら46本(常染色体22組+性染色体2本)のはずの染色体が47本(常染色体のどれかの組が2本ではなく3本ある)になっている。精子や卵子を作るときに減数分裂という特殊な分裂の仕方をし、染色体の各組が分離されて染色体23本の細胞ができ、それが精子や卵子になる。ところがときどき減数分裂がうまくいかず、どれかの組が分離されずに一方の細胞に染色体が2本とも入ってしまうことがある。それが精子や卵子になって、さらに受精までいくと、24+23=47本の染色体を持った受精卵ができる。これがトリソミーだ。トリソミーの受精卵の多くは子宮内で発育することができず、胎児のうちに死亡し、流産となる。だが一部のトリソミーは出生を迎えることがある。

出生数の最も多いのが21トリソミー(21番染色体が3本あることをあらわす。ヒトの染色体は各組に番号が振ってある)のダウン症で、その次に多いのが18トリソミー、13トリソミーとなる。多いと言っても絶対数は非常に少なく、21トリソミーは1,000人に1人、18トリソミーは3,500から8,500人に1人、13トリソミーは5,000から12,000人に1人と言われている(17ページ「はじめに」)。

以前は13、18トリソミーの児が1歳の誕生日を迎えることが難しかったので、そのような子どもは死ぬ運命であると考えられていた。治療は苦痛を延ばすだけのものとみなされ、治療をしないことを選択することが普通だった。しかし現在は1歳の誕生日を迎えるどころか、さらに生きる子も増えた。治療のために手術に踏み切る医師も増えてきている。

この本は、松永が日常診療を依頼された13トリソミーの児の話が中心だが、後半は、その診療をきっかけに彼が出会うことになった、トリソミーに限らない先天性疾患の児と、その児を持つ(あるいは持っていた)家族の話へと広がる。内容は良質のドキュメンタリーと言えるだろうが、小説を読んでいるような気持ちがするほど、児の家族ひとりひとりの人物像がよく描かれている。

松永はときに聞きにくいことを尋ね、意地悪とも思える質問をするが、それはこれがこの本をきれいごとで終わらせたくないと思ったからだろう。おそらく読者にとってもそのような質問がいちばん知りたいことであるのに、聞くことをはばかって、相手の気持ちを想像するだけで終わらせてしまうような質問なのだ。そして、松永が得た答えは、当事者からのものであるだけに非常に重い。

下園壮太『一見、いい人が一番ヤバイ』(PHP研究所)を読了した。奥付によれば下園は元自衛官で、衛生隊員などを経て陸上自衛隊初の心理幹部となったという。現在は退職し、カウンセラーをしている。

あとがきによれば、この本は編集者と下園との対話をライターが本にまとめたもののようだ。タイトルとテーマを発案したのも編集者だ。下園はこのタイトル案を聞いたとき「私が思ったのは、一見、いい人が一番うつになりやすい、というヤバさです」と書いている(203ページ「おわりに」)。ところが編集者の意図はその逆で、一見いい人そうに見える人が一番毒を持っているというものだった。おそらく編集者はこの企画を練っている段階でさまざまな「一見、いい人」のタイプを思い描き、それを書き出して下園との面談に臨んだのだろう。下園は自分の分析とアドバイスを述べ、編集者とライターがそれをまとめた。編集者の企画力が優秀なのだ。

下園のアドバイスはすべて納得がいくものばかりだ。逆に言えば目新しいことは無いかもしれない。だが、納得のいく対処法をしっかり提示できるというのは、非常に安定感があって良い。

彼は「人間にとって一番怖いのは人間だ(8ページ)」という。原文は太字になっている。この意見に私も賛成する。人間は現在、人間関係に起因するエネルギー消費がもっとも多いのではないかと思う。エネルギーが枯渇して人が自殺するとすれば、その原因は結局は対人関係なのだろうと思う。

人が疲れきると頑固になりかえって疲れを認めなくなるという指摘(28ページ)、イライラなどの負の感情はそれ自体がエネルギーを奪うが、感情にフタをしようとしても、フタをするにもエネルギーがいるという指摘(29ぺーじ)など、いずれもよく言われていることで、私も実感することだ。疲れていなければ相手を客観的に見ることができる。だから下園は、人は悩みごとで悩むのではなく「エネルギー低下によって悩んでいる(32ページ)」と言う。面白い言い方だと思う。そのために彼は休みことの重要性を強調し、休むことについて章をひとつ割いている。

彼は、カウンセリングのときに「人間が原始人だったころに立ち返ってみる」ことを勧めるという。そうすることで自分の心をよりシンプルに捉えることができる。このように考えるようになったのは自衛隊の心理教官になったときにハンス・セリエの学説を読んでからだ。

ハンス・セリエは、「私たちのストレス反応は、自分にとって有害な外部刺激に対する正常な反応として起こるものである。ストレス反応があるからこそ、私たちは命を維持していくことができる」と述べています。
私たちが苦手としがちな「怒り」や「恐怖」という感情もまた、真っ当な反応であり、こういった感情が心にわきあがるのと同時に、体でも心拍や血圧が上がり、筋肉は緊張度を高めます。これも、外敵と戦い命を守るための原始的な自己防衛本能だ、というのがセリエの考えです。(48ページ、太字は原文)

ストレスを感じることが悪いことだと思う人には、この話は有用だろう。

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