阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2019年07月

彼は調査の開始にあたって、中立的な立場であったことを強調している。

[事件が実際に存在したのかどうか]自分で見聞きしない限り納得できない性格なのだ。まあ調べるだけ調べてみるか。極論を言ってしまえば、虐殺があろうとなかろうと私には無関係である。興味はいつだって事実か否かだけだ。(17ページ)

ところが予備調査の段階で、いくつもの障害に出会う。「著名な研究者」に会いに行って協力を断られた話は昨日引用した。ところが、どういうわけか彼は上司から調査を命じられる。逃げようと、上司との会話の中で伏線を張っておいたはずなのに「私は自分の危機管理能力の低さをただ呪詛した(27ページ)」とある。だが、彼の調査は綿密で、膨大なエネルギーをつぎ込んだものだった。

この本を読んで感じたのが、著者の構成力の確かさだ。上のような、いわば「斜に構えた」そぶりは私の好みではないが、本の冒頭にさまざまな伏線が用意され、それが終章にかけて徐々に回収されていく。私が伏線とは思っていなかったものまでがきちんと回収されていくのは、読み進みながら感心させられた。だが、その書き方には強引なところはなく、技巧的なところも少ない。一部のことについては事実を並べるだけで、あえて解説も結論も述べていない。好感の持てる書き方だと思うと同時に、著者の筆力を感じた。

この本では、南京事件に関する外国メディアの報道が少しだけ引用されている。戦時中の日本は厳しい報道管制が敷かれていたから、事実を知るには外国メディアの記事が重要になる。外国メディアの報道をもっと深く掘り下げても、面白い本ができたのではないかという気がした。

報道管制という点では、現在の日本でも似たような部分がある。日本では自主規制や忖度により、メディアが一部の事実を報道しない。負傷者や死体の映像など、真実を知るには必要と思われる情報まで隠されてしまう。さらに核関連の報道では「核爆発」を「臨界」と言い換えるなどの操作がおこなわれる。外国メディアの記事に目をとおすというのは、現在の日本でも必要なことだと言える。もっとも、南京事件を米国のでっち上げだと思っている人にとっては、外国のメディアが報じることに接する意味はあまりないのかもしれないが。

清水潔『南京事件を調査せよ』(文藝春秋)を読了した。清水は日本テレビ報道局記者で、この本は戦後70周年記念番組「南京事件 兵士たちの遺言」作成のための取材を基にして書かれた本だ。奥付には次のように書かれている。

本書で描かれている「南京事件」のドキュメンタリーで、ギャラクシー賞 テレビ部門優秀賞、「放送人グランプリ」2016準グランプリ、平和・協同ジャーナリスト基金賞奨励賞などを受賞した。(279ページ、奥付)

「まえがき」は次の言葉で始まっている。

あえて冒頭に明記しておきたいことがある。
それは本書がある〝一部の人たち〟から拒絶される可能性についてだ。
これが「南京事件」、「南京大虐殺」などと呼ばれるこの事件を、数年にわたって取材した私の素直な感想である。(3ページ)

彼は取材先でも、放送を危ぶむ声に何度も出会った。たとえば、従軍兵士の日記を収集し、『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』の著書のある小野賢二からは、次のように言われた。

「取材協力はしますけど、本当に放送なんてできるんですかね。これまでもNHKなどは、東京や福島の放送局から何度も来ましたけど、みな一度きりでしたよ。これを報じようとして新聞社で飛ばされた記者も知っています。難しいですよ南京事件は……」(85ページから86ページ)

また著名な研究者からは次のように言われた。

「お止めになった方がよろしいと思いますよ。何しろ〝両方〟から矢が飛んできますからね。出演もご遠慮させて頂きたいですな」(26ページ)

現政権が否定しようとしている事案を調査し、報道することがいかに困難かは、私にもわかる。よく放送し、さらに書籍の出版までこぎつけたものだと思う。

この本を読み終わってまず思ったのが、南京事件を否定する人びとの心理を分析してみたいということだった。

怪しげなホームページの記載やツイッターでの発言を鵜呑みにして陰謀論に同調し、事件がなかったと思い込む人の心理(あるいは社会病理)にも興味がある。また、事件を意図的に否定し、政治利用しようとする人びとの考え方にも興味がある。明確な意図がない場合はその心の動きに興味があり、意図を持っている場合にはその意図に興味があると言ってもいい。

たしかに日本人がそのようなことをしたと知るのは気持ちの良いものではない。だがそのようなことをしたのは日本人だけではない。誰しもそのような残虐行為に手を染める可能性があり、その可能性を作り出す戦争という手段に、もっと冷静な目を向けねばならない。日本人だけを卑下する必要はないが、他の人もやっているからと居直ることも誤りである。すべての残虐行為に目を向け、その告発と再発防止に真剣に取り組む必要があると考える。

Lindley『開眼!JavaScript — 言語仕様から学ぶJavaScriptの本質』(オライリー・ジャパン)を読了した。面白い本だった。

コンピュータ言語を学ぶとき、私の場合、以前は言語の仕様書をひととおり読んでから使い始めることが多かった。言語仕様の全体像を知っておきたいと思うから読んだのだが、以前学んだBASIC、C、COBOL、PL/1などは、仕様書が200ページから300ページと、比較的にコンパクトだったことも仕様書を通読しようという気になる理由のひとつだった。

ところが最近の言語は仕様が大きいものが多い。さらにライブラリを使って機能を拡張することが一般的で、言語の仕様書だけ読んでもその言語を実際の場面で使えるようにはならないし、ライブラリのリファレンスまで読むとなると、膨大な量の文書を読まねばならないことも多い。また、他の言語の類推で使えてしまう言語も多くなった。

そんなわけで、Perlは本を通読したが、JavaScript、PHP、Pythonは入門書のみで使い始めた。特にJavaScriptとPHPはずいぶんプログラムを書いたので、自分のしたいことはほぼできるレベルに達していると感じている(ただしPHPは後で本を通読した)。だが、JavaScriptについてはつねに「よくわからない」という感じがつきまとっている。それは、動作が気になるWebページのソースを表示させてスクリプトを覗いてみても理解できないことがあるからだ。言語仕様の細かいところを熟知していないからだと思う。

この本は、JavaScriptの特徴的なところ、誤解されやすいところをピックアップしてまとめた本で、次のような目次構成になっている。
  1. JavaScriptオブジェクト
  2. オブジェクトとプロパティを扱う
  3. オブジェクト(Object()
  4. 関数(Function()
  5. グローバルオブジェクト
  6. this
  7. スコープとクロージャ
  8. 関数のprototypeプロパティ
  9. 配列(Array()
  10. Srting()
  11. Number()
  12. Boolean()
  13. プリミティブ型文字列、数値、真偽値
  14. null
  15. undefined
  16. Math関数
10章以降は2ページから6ページといった短い章が続いており、注意すべき点のみ列挙したような形式になっている。この本を読むことで、まさに目を開かされたことが数多くあった。些細なことばかりなのは確かだが、Webで見かける複雑なスクリプトを読み解く力が増したように思える。特に関数オブジェクトのコンストラクタであるFunction()は、今まで直接使ったことがなかったので、非常に参考になった。

第5章第3節は「過去の『厚生(労働)白書』中の社会保障と経済(成長)関連の記述の変遷」で、昭和31年度以降の60冊の『厚生(労働)白書』を分析している。二木の得意分野であり、国が発表した公式文書である白書の記述を時系列で比較検討することで、白書が特定の意図を持って編纂されたものであること、その意図が時間ともに変化したり、あるいは急に変わったりするのがよくわかる。私はここから公的文書の読み方をひとつ学んだと思う。

「社会保障が経済成長にとってマイナスの効果を持つ」という根深い主張に対し、『昭和35年版白書』と『昭和43年版白書』では、いずれも社会保障が社会を支え、結果として経済成長に貢献しているとの強い主張がなされている。ところが「昭和50〜63年版『白書』」は「逆に社会保障費抑制の主張を全面に出し」ている(177ページ )。

『昭和52年版白書[高齢化社会の入り口に立つ社会保障]』で特記すべきことは、総論第1章第1節2「社会保障給付費及び負担の国際比較」で、「65歳以上人口と社会保障給付費の推移」図[引用者注:図は省略]を示し、「現行制度はその潜在水準として欧米並み」と主張したことでした(11、13頁)。これは、日本の社会保障費水準は人口高齢化が進むと自動的に西欧並みになると思わせる(錯覚させる)図の初出です。(177ページ)

「錯覚させる」とは穏やかではないが、二木もある意図を持ってこの図が挿入されたとみているのだろう。『昭和54年版白書』には「2000年には日本の社会保障費水準が西欧諸国の水準を「上回ることは確実である」との予測」が掲載され、同様の図が昭和58年、平成8年にも掲載された。

ところがその後主張は徐々に変更され、『平成20年版白書』(https://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/kousei/08/dl/03.pdf)にはそれを否定する下図が掲載された。この図を見れば、日本が高齢化率が高いにもかかわらず社会保障費水準が非常に低いことが一目瞭然である。

社会保障の給付規模の国際的な比較


この一連の流れを読むと、厚生労働省と政権との確執や、厚生労働省内部での考え方のぶつかり合いなどが見えてくる。政府が一枚岩ではなく、また共通の長期的展望を持って首尾一貫して動いているわけでもないことがよくわかる。人びとが政府を動かすということは、政府の中の同調者の人数や影響力を大きくさせることなのだと、あらためて感じた。

『平成29年版厚生労働白書』第2章の「相対的貧困の動向」と「所得再配分の動向」について、二木は批判を述べている。表現は「疑問・物足りなさも感じました」と控えめだが、指摘は的確だ。

白書では、相対的貧困率が低下していると述べ、低所得者向け給付も受給額が負担額を上回っていることを示す図が掲載されているが、二木は大沢真理(東京大学教授)らの研究を引用し、次のように反論している。

就業していない人を含めても日本の所得再配分は低所得者に対して薄いそうですが、就業している低所得者にとっては、「社会保障の逆機能」が生じており、彼らは「税・社会保障制度によって虐待されている」と厳しく批判しています。(169ページ)

さらに彼は『平成23年版白書』も、OECDの2008年報告書に基づいて作成した図で、次のように述べていたことを指摘している。

「日本の『子どもの貧困率』に関しては、:国際的にみて高い水準にあること:再配分前後で比較した場合に、再配分後の方が貧困率が高くなること(日本のみ)が指摘されている(109頁。ただし、ここでの「再配分」は現金給付のみを対象にしており、現物給付は含みません)。(169ページから170ページ)

彼は「貧困の克服と所得再配分が社会保障の原点であることを考えると、『平成29年版白書』が最新のデータを用いてこの点の追試をしていないのは残念です(170ページ)」と述べているが、白書にどの項目を盛り込み、どの項目を外すのかは、何度も議論を重ねて慎重に検討されている事項であるはずだ。子どもの貧困率については「取り挙げない」ことを政府が積極的に決めたと見なさねばならない。再配分後にかえって貧困率が高くなるという「社会保障の逆機能」を黙認することにしたということだろう。

二木は、白書第3章で示された「社会保障の在り方に関する国民の意識」調査(2015年)の結果、社会保障の負担増を容認する割合が高齢層や高所得層で高い反面低所得層で低いことに注目し、「現在の制度・政策のままでは、今後の社会保障費拡大の財源確保が困難であることを暗示しています」と分析している。彼は「国民意識の分断は深刻」と評価し、その分断の背景には「低所得層における負担感の重さ」があるとしているが、そのとおりだろう。

この国は現在「自己責任」を言い訳に格差を拡大させる方向に向かっているが、格差拡大によって生まれるのは分断であり、その先には社会の荒廃がある。

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