彼は調査の開始にあたって、中立的な立場であったことを強調している。
[事件が実際に存在したのかどうか]自分で見聞きしない限り納得できない性格なのだ。まあ調べるだけ調べてみるか。極論を言ってしまえば、虐殺があろうとなかろうと私には無関係である。興味はいつだって事実か否かだけだ。(17ページ)
ところが予備調査の段階で、いくつもの障害に出会う。「著名な研究者」に会いに行って協力を断られた話は昨日引用した。ところが、どういうわけか彼は上司から調査を命じられる。逃げようと、上司との会話の中で伏線を張っておいたはずなのに「私は自分の危機管理能力の低さをただ呪詛した(27ページ)」とある。だが、彼の調査は綿密で、膨大なエネルギーをつぎ込んだものだった。
この本を読んで感じたのが、著者の構成力の確かさだ。上のような、いわば「斜に構えた」そぶりは私の好みではないが、本の冒頭にさまざまな伏線が用意され、それが終章にかけて徐々に回収されていく。私が伏線とは思っていなかったものまでがきちんと回収されていくのは、読み進みながら感心させられた。だが、その書き方には強引なところはなく、技巧的なところも少ない。一部のことについては事実を並べるだけで、あえて解説も結論も述べていない。好感の持てる書き方だと思うと同時に、著者の筆力を感じた。
この本では、南京事件に関する外国メディアの報道が少しだけ引用されている。戦時中の日本は厳しい報道管制が敷かれていたから、事実を知るには外国メディアの記事が重要になる。外国メディアの報道をもっと深く掘り下げても、面白い本ができたのではないかという気がした。
報道管制という点では、現在の日本でも似たような部分がある。日本では自主規制や忖度により、メディアが一部の事実を報道しない。負傷者や死体の映像など、真実を知るには必要と思われる情報まで隠されてしまう。さらに核関連の報道では「核爆発」を「臨界」と言い換えるなどの操作がおこなわれる。外国メディアの記事に目をとおすというのは、現在の日本でも必要なことだと言える。もっとも、南京事件を米国のでっち上げだと思っている人にとっては、外国のメディアが報じることに接する意味はあまりないのかもしれないが。