阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2019年07月

殺人の証拠があるとき、それを「なかった」と言うことでどれだけの人が傷つくかという想像力が、柴田のような人びとにはない。南京で日本軍による民間人や捕虜に対する組織的な殺害行為があったことは否定できない。否定派は、規模を否定したり、その殺害が民間人を装った敵兵に対するものであったと抗弁するが、殺害自体は否定できない。ところが南京事件をなかったとする発言は、実際にあった殺害そのものを全否定する発言と捉えられる(また発言者はそのように意図しているとも感じられる)。その否定により、被害者の関係者たちで存命の人びとがどのように感じるかを想像する力が欠如している。また、そのとき殺害された人びとの存在(人権あるいは魂と言ってもいい)に対する尊重の念を欠いている。

「お互いさまだ」という意見もあるだろうが、それで逆に中国兵に殺された日本人の遺族が納得するのだろうか。シベリアに抑留された日本人やその家族が納得するのだろうか。立場を替えてみれば容易にわかるが、お互いさまだとか戦争だからという言葉で納得できるものではない。

もしかしたら、否定派は悪意を持って否定しているのではないかとも思う。つまり否定することで相手が傷つくことを理解しており、相手に対する攻撃の手段として、歴史修正主義を利用しているのかもしれない。その場合は、ここで私が展開しているような議論は、残念ながら何の役にも立たないのだろう。

私にはさらに、ナショナリズムや右翼が歴史修正主義と同一視されるのも我慢がならない。柴田は「昔からナショナリズムの人であり、自分でも「右翼だ」と公言していた(映画と夜と音楽と...[635]最終回)」そうである。ナショナリズムという言葉にはさまざまな意味があり、十河がどのように意味でこの言葉を使ったのか、そもそも柴田自身が自分の考えのベースをナショナリズムだと言ったのかは定かではない。だが、少なくとも諸外国を見れば、ナショナリストには右翼もいるが左翼も多い。連合赤軍事件で有名になったいわゆる「京浜安保共闘」のスローガンも「反米愛国」であった(https://ja.wikipedia.org/wiki/日本共産党(革命左派)神奈川県委員会)。「民族解放戦線」を名乗る左派ゲリラも多い。

また、何をもって「右翼」と名乗っているのかも非常に気になる。排外主義なのか、民族主義なのか、国家による国民の支配を肯定するのか、ファシストなのか、階級社会を是認するのか、それらの思想は決してひとくくりにして「右翼」と呼べるものではない。排外主義であっても共産主義を基本とできるし、ファシズムと結びつけて語られるナチスも「国民社会主義ドイツ労働者党」だ。

私にとってナショナリズムや右翼とは思想であり、社会的・政治的立場だ。歴史修正主義のような妄想的な思い入れではない。

柴田の「思想」は思想と呼べるほどのものではなく、単なるひねくれたお調子者の悪乗りの域を出ないように思う。

私がこれから述べる考えは、「日刊デジタルクリエイターズ」の編集長柴田が公表している編集後記の内容から彼の考え方を分析してみたものである。いわゆる歴史修正主義者や右翼・左翼すべてに当てはまるものではない可能性はじゅうぶんに承知している。だた逆に、少なくとも一部は一般化できるのではないかとも思っている。私の周囲にいる柴田に似た人びとの観察と分析も加えているからである。

まず彼に感じるのは幼稚さと想像力の欠如である。何も入っていないはずの帽子からウサギが出てくれば、驚くのは当然だし、面白いと感じるだろう。だが、だからといって帽子の中でウサギが飼えると思ったり、帽子の中に4次元通路があると信じたりするのは幼稚だ。もちろん、4次元通路を発想することは想像力のたくましさや考えのユニークさを表すものだろうから、否定すべきものではない。だが、そう信じてしまうのは、他の可能性(たとえば帽子の中が二重になっている、あるいはバックドアがありそこからウサギを入れた)を想像できない、想像力の貧困による短絡的思考、つまり未熟で幼稚な考えだと思う。

「〜はユダヤ人(あるいは中国)の陰謀だ」といった陰謀論や、「実は〜は無かった」という歴史修正論も、帽子からウサギを出すのに似ている。常識に反することをさも本当に起こったかのように見せる、手品のようなものだ。そういった「言葉の(認識論的)手品」をすぐ信じるのは、そのような幼稚さと想像力の欠如に起因すると考えられる。RHYMSTERの「The Choice Is Yours」の歌詞にあるように「所詮カネか? 誰かの陰謀か? そりゃ解り易いがそれだけじゃないな」というわけだ。

さらに、自分の発言が他人にとってどのような意味を持つのかという視点が欠けている。これも想像力の欠如の一形態だろう。外見が周囲と異なる人をあざけりの対象とするとき、その人がどれだけ傷つくかを想像する力が欠けている。共感する力も想像力から生じる。柴田には共感する力も欠けているだろう。子どもが友だちの出自や民族、身体的特徴などを「やーいやーい」とはやし立てるのと同じメンタリティを感じる。

もうひとつ感じるのは、自分の側を正当化し、高い地位を与えることで、自分の不安を解消しようという安易な保身である。過去の戦争での残虐行為を認めることはたしかに辛い。だがそこでその行為は「実はなかった」とする説に飛びつくのはあまりにも安易である。柴田を含め、歴史修正論に飛びつく人びとは、「こんなのもありました」と安易に紹介する傾向がある。自分ではその真偽がわからないけれど、こんな説もあるのかと面白いと思ったからという単純な(単細胞な)理由でとんでもない映像などを紹介された経験がある。
(この項つづく)

降板を決めた執筆者は他にもいた。まつむらの記事から引用する。

以前、十河 進さんが連載を辞められた2014年6月13日の記事。
映画と夜と音楽と...[635]最終回 虐げられた者たちの決意
これを受けて、2週間後のわたしの記事の近況欄で、次のように書いた。
“十河さんがデジクリのレギュラーを降りられた。実は僕自身、十河さんと同じ理由でこの一年以上、連載から降りようと何度も思ってきた。編集長の主義主張は別に個人の意見だから構わないが、偏見や嘲笑うような表現は人を不愉快にさせる。また、本文と編集後記というステージの違いもずるい。十河さんが降りたことで、この数週間散々考えたが、一つだけ続ける理由が見つかったので、もう少し続けてみることにします。”

ただし、十河進(そごう・すすむ)2019年1月9日から「日々の泡」というタイトルで映画を中心とした記事の連載を再開している(http://bn.dgcr.com/archives/20190109110300.html)。第1回のテーマがカーソン・マッカラーズと『心は孤独な狩人』だったので記憶に残っていたが、この記事も最後までは読んでいなかった。

まつむらは、多忙でしばらく「デジクリ」を読んでいなかったと書いているが、それでも5年越しの絶縁ということになる。十河が復帰した顛末は自分の記事で簡単に触れているが、自分自身の心の動きについては書かれていない。

実は、まつむらが降板した号の編集後記で、柴田は次のように謝罪している。

●まつむらさんへ 筆者のみなさんへ 読者のみなさんへ
まつむらさん、ご意見ありがとうございます。たしかにその通りでしたと冷静に素直に受け止めています。まつむらさんをはじめ多くの人を不愉快にさせたこと、不愉快にさせ続けていること、たしかにおっしゃる通りです。謹んでおわびいたします。
すべてわたしの不徳、教養のなさ、ゴーマン、底意地の悪さ、悪趣味が引き起こしたものです。編集後記欄を利用して、好き勝手に自分の趣味である「偏った思想」を露出してきたことを自覚しています。これを機に、この悪い趣味はやめにします。じつは前にも一度こういう事態を招いたのに、まったく懲りない男です……。

そして、最後を「※この度のまつむらさんのテキストには一切、手を加えていません」という一文で締めくくっている。だが、2019年07月23日No.4834(http://bn.dgcr.com/archives/20190723110000.html)の編集後記では富士山噴火や東南海巨大地震を扱った本を紹介しており、彼の趣味が修正されたとは思えない。

経過説明はこれくらいにして、次には私の考えを述べたい。

まつむらは寄稿をやめ、過去の記事も削除するように編集部に要請するとしている。彼は「自分が読みたくないメディアに、自分の文章を載せられない」と断言している。原因は編集長である柴田忠男の編集後記にある。編集後記の中で柴田はいわゆる歴史修正主義(過去の歴史的事実を否定して、都合の悪いことはなかったことにしてしまおうとする考え)に基づく本を多数紹介している(その他にも愚にもつかない本を紹介しているが)。だが、まつむらが憤慨しているのは、そのためだけではない。

彼は理由を3つ挙げているが、私なりにそれを補足し、まとめ直すと次のように言えるだろう。
  • 柴田編集長とは政治的な意見が異なる。まつむらは公に認められている歴史を否定する考え方には同調できないし、また戦前の日本を賛美し、アジア諸国を低く見るような立場に賛成することはできない。
  • 柴田編集長の意見が、記事としてではなく、編集後記という特殊な形で発表されている。記事はその記事を書いた人の意見だが、編集後記は編集部の意見であるとまつむらは考え、柴田の後記は「デジクリの編集方針」であるとみなしている。
  • 柴田編集長の編集後記には、他者に対する敬意が感じられないので、信頼が失われた。まつむらは例を複数引用しているが、読んでいるだけで不愉快になるので、ここでは再引用しない。柴田の表現は、明らかに他国を小馬鹿にし、下に見たものだと、私も感じる。まつむらは柴田を個人的に知っており、直接に不愉快な経験はしていないそうだが、柴田の書く文章があまりにひどいので、信頼できなくなったということだ。
実は、私がまつむらの「絶縁」を知ったのは、その後に書かれた武盾一郎(たけ・じゅんいちろう)の記事(2019年7月23日No.4834 )を読んだからだ。まつむらの記事自体は読んでいなかった。武の記事を読んであわてて受信してあった前のメールを読んだというのが実のところだ。武の記事から引用する。

まつむらさんのテキスト[引用者注:柴田に対する批判、http://bn.dgcr.com/archives/20190717110200.html]に対しては、本当に隅から隅まで淀みなく同意します。本当におっしゃる通りだと思います。
まつむらさんは降板してしまうばかりでなく「ユーレカ以降のものはバックナンバーも、削除していただこうと思う」と書いておられます。
私の気持ちはツラく、引き裂かれております。なぜなら、まつむらさんの『ユーレカの日々[73]さよならデジクリ』には、心底共感するにも関わらず、まつむらさんと同じ行動にならない自分がいるからです。今もこうしてデジクリで書いていますし。(羽化の作法[89]現在編 http://bn.dgcr.com/archives/20190723110200.html)

武はまつむらとは違う道を選んだ。柴田から記事の内容について注文をつけられたことがなく、自由に書いているので、このまま続けようと決めたのだ。私もデジクリの購読をやめようかとも思ったが、事がどのように進展するのか(あるいはしないのか)を見たい気持ちもあり、また私にとって情報源でもあるので、とりあえず購読を続けている。購読の継続が柴田を支えることになるのだとすれば、私も引き裂かれざるを得ない。

「日刊デジタルクリエイターズ」(以下「日刊デジクリ」)というメールマガジンがある。1998年4月13日に創刊され、平日に発行され、7月26日現在でNo.4837である。誌名から推察されるように、プログラマ関係の人びとやクリエータ関係の人びとが寄稿しており、面白い記事も多く、私にとっては情報源のひとつである。

だが、いつも隅々まで読むわけではない。紙の本の場合は表紙から奥付、さらにはその後の広告まで読むのだが、メールマガジンはそこまで読む気にならない。いつも記事が2つか3つなので、面白そうなものを見るだけだ。現在ぽつぽつと読んでいるのは、存在論やシンギュラリティにこだわるセーラー服オジサンこと小林秀章が書いている「Otaku ワールドへようこそ!」、スクリプト系が得意な古籏一浩の「クリエイター手抜きプロジェクト」、ローマでマンガを教えているMidoriの「ローマでMANGA」だろうか。Midoriの記事を読んだことでNHKで放送された「ラジアン」を見て、さらに元の漫画本を購入することになった。

配信される記事はウェブサイト(http://bn.dgcr.com/archives/)にアーカイブとして保存されているので、今回はそこから引用することとした。

前置きが長くなったが、常連の執筆者「まつむら まきお」が寄稿をやめた。まつむらは、自称「まんが家、イラストレーター・成安造形大学教授」である(http://www.makion.net)。文章は面白く、特に笠居トシヒロとの「MKチャット対談」は面白く、かなり読んだ(毎回ではない)。そのまつむらがNo.4830で「日刊デジクリ」にはもう寄稿しないと宣言したのだ。

デジクリに寄稿しはじめたのは、デジクリの創刊3号、1998年4月。なんと21年になる。今のシリーズ『ユーレカの日々』をはじめたのは2011年6月。これもすでに8年たった。
唐突ではあるが、今回でデジクリに寄稿するのを止めることにした。また、バックナンバーに掲載されている過去の原稿(まつむら単独のもの)も、すべて削除していただくよう、編集部にお願いする。
その理由は、もうこのメディアに自分の文章が載っていることが耐えられないからだ。
なぜそう思うに至ったかを説明しよう。後に詳しく述べるが、要するに、柴田編集長の編集後記が、私にはもう耐えられない。特に6月〜7月はひどかった。歴史修正主義的な立場をとる人たちの本ばかりが続く。(http://bn.dgcr.com/archives/20190717110000.html)

私が清水潔『「南京事件」を調査せよ』を読了して、ブログに「南京事件を否定する人びとの心理を分析してみたい」と書いたのと時を接してこのようなことがあった。だから、この問題について少し状況を説明し、私の考えを述べてみたい。

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