阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2019年06月

森田達也、白土明美『死亡直前と看取りのエビデンス』(医学書院)を読了した。この本には著者紹介がないが、森田も白土も緩和ケアを専門とする医師である。著者らは「は同じ頻度で生じるにもかかわらず、人が生まれる過程は熱心に研究されているが、人が亡くなる過程はほとんど研究されない。不思議である(iiiページ「まえがき」)」と述べるが、まさにとおりで、人の誕生に関する医学・医療はあるが、人の死を直接扱う医学領域は確立されていない。もちろん、誕生についてはその前後を長期に観察し研究することができるのに対し、死はつねに突発的で、死後のことは研究の対象にしにくいので、死を医学として扱いにくいのは言うまでもない。

筆者が学生のときは、医学教育では「どうやったら患者を助けられるのか」をひたすら習いました。「回復させるための方法」は一生懸命に教えますが、回復と同じくらい(領域によってはひょっとすると回復するより)出会うであろう、「患者さんが亡くなってしまうとき」にどのような変化がどうして起きてくるのかはほとんど習いませんでした。(3ページ)

ここでは医学教育が論じられているが、そればかりではない。つい数十年前までは医学・医療のほぼ全体を急性期医療あるいは治療する医療が占めており、社会も医療といえば「治すこと」と考えていた。社会制度全体がそのように設計されており、社会の通念もそれを前提としていた。

たとえば最近救急車での救急搬送が問題になることが多い。たとえば2019年6月25日には朝日新聞のウェブサイトで(有料会員限定記事ではあるが)「蘇生処置なんで? 望んでいないのに 呼吸が止まったとの119番通報を受けてある晩、患者の家に駆けつけた救急隊長。蘇生処置を始めようとすると止められ、やむなく処置をするふりをして病院に搬送しました」という記事が配信された(https://digital.asahi.com/articles/ASM6G7DG0M6GULBJ00X)。自宅で看取ることを希望する人なのに最期に家族が動転して救急車を呼んでしまい、不本意な救命処置を受けたと言う話はよく聞く。これも、現在の日本の救急医療が「治療する医療」を前提に制度設計されているからだ。

医療が死を扱ってこなかった背景には、死を取り扱うこと自体が「縁起が悪い」として忌避する文化があったことも否めないが、昔の医学が無力であったために、まず治療する努力をすることが必要だったことも大きな理由だろう。

しかし今医学は長足の進歩を遂げ、人はなかなか死ななくなった。もちろん治療困難な重篤な病気はまだ多く、若くして亡くなる人も多いことは事実だが、平均寿命がどんどん伸びたことも事実だ。社会は生物学的な意味で大きく変わりつつあるが、社会体制の変革は、当然のことながらそれに追いつかない。その差を意識して追いつこうとする努力がますます必要になっている。

この本で紹介されているエピソードについて触れておきたい。ハイゼンベルクの才能が豊かであったことは言うまでもないが、訳者の注に次のような紹介があった。

学位論文の仕事とその試験を1学期間ですませた。学位をとるまでに大学に入学してから全部で6学期間(3年間)、しかもその間にきこりまでして苦学しているのだから彼の才能がいかにすばらしかったか。ちなみに普通ドイツで物理の学位をとるのに要する平均年数は入学してから8〜9年というところである。なお、彼の学位論文は量子論とは一応無関係な古典力学の流体の乱流におけるポワズイユの流れの安定性に関するもので、彼の師のゾンマーフェルトゆずりの見事な数学的技巧を駆使して複雑な非線形の問題を取り扱ったものであった。その結果は正しいものであったにもかかわらず一見矛盾を含むもののように見えた。[中略]したがってこの問題は長い間議論の対象となり、結局、完全な理解が得られるまでにはほとんど30年を要したという。(94ページ、訳注)

ハイゼンベルグがノーベル賞物理学賞を受賞した31歳という年齢は、物理学賞では1890年に受賞したローレンス・ブラッグの25歳に次いで2番目に若い(https://www.nobelprize.org/prizes/facts/nobel-prize-facts/) 。このことだけでも彼の天才が察せられる。

この訳注にある「きこり」について補足しておこう。ライプチッヒでのアインシュタインの講演(6月27日に言及した、ナチス寄りの学者によって反対宣伝がなされた講演)から意気消沈してホステルに戻ると、全財産「つまりリュックサックとともに下着も着替えの背広も、そっくり(73ページ)」が盗まれていた。幸い、ポケットに切符が残っていたので、ミュンヘンに帰ったが、「父には、こんな大きな経済的損失を負わせることができないことを知っていたので」、家に帰らず、ある公園内でのきこりの仕事を探し出し、「損失をある程度穴うめできるぐらいのお金をかせいでから」家に帰ったという。彼には余力がたっぷりあったということだ。

最後に、この本の題名について訳者のあとがきから引用しておく。

ただ著者の言わんとする所は、細かい一つ一つの部分に全力をつくしながら、常に全体の見通しを持って進まねばならないということである。(400ページ「訳者のあとがき」)

「部分」を自分が研究している学問領域、「全体」をその学問が影響を与え、また自分が暮らしている社会と捉えることもできる。また「部分」をあるひとつの量子理論、「全体」を物理学全体と捉えることもできる。部分に注力しつつ、全体を意識するというのは、バランスの良い研究をし、バランスの良い人生を歩むには不可欠なことだと思う。

原子爆弾が投下されたというニュースを聞いて「最もひどいショックを受けたのは、当然のことながらオットー・ハーンであった(311ページ)」という。

[ハーンは]ウランの核分裂は彼の最も重大な発見であったし、それは原子技術への決定的で、かつ誰にも予想さえつかなかった第一歩であった。そしてこの一歩が、今や一つの大都市とその市民に、しかもその大部分の者は戦争について責任ないはずの武器を持たない人々に、恐るべき結末をひき起こしたのであった。ハーンのショックはひどく、取り乱して彼の部屋にもどって行った。われわれは彼が自殺するのではないかと真剣に心配した。(311ページ)

ハイゼンベルクらも原子爆弾開発の可能性は理解していたが、莫大な費用と時間がかかることから、政府に開発を諦めさせ、原子力発電の実用化のほうに政府の意欲を向けさせていた(279ページから282ページ)。彼は「英米側の技術的、軍事的な潜在力はドイツと比較にならぬぐらい遥かに大きい(282ページ)」と認識しつつも、「原子爆弾は、イギリス人やアメリカ人によっても、またわれわれの側でも、近い将来において作られることはないだろう(279ページ)」と予想していた。しかし、彼のこの予想は見事に裏切られ、米国は原子爆弾を開発して日本に投下した。

原子爆弾はドイツの原子物理学者らが製造したものではないが、彼らの発見と知識をもとに生み出されたのは間違いない。怪物を世に出してしまったことを知り、彼らは恐れおののいたのだ。だが、ハイゼンベルクは次のように述べている。

「われわれが、たとえこの全因果関係になんらかの点で関係深いものでありはしても、この場合に私は〝罪〟という言葉を用いることに意味があるとは思わない。オットー・ハーンとそしてわれわれは誰も、近代自然科学の発展に参与してきた。この発展は人類が、あるいは少なくともヨーロッパの人類が、すでに数百年前に決定した — あるいはもう少し注意深く表現するならそれにたずさわるようになった — 一つの生活現象なのだ。(312ページ)

この現象は良い結果も悪い結果も生む可能性があるが、悪い結果については制御可能であり、最終的には「善い方が打ち勝ち得るものである」と彼は確信していた。だから「自然科学の発展という生活現象に参加することを罪悪と見なすことはできない」(312ページ)。

1956年の夏、ハンブルク大学の哲学の教授となった友人カール・フリードリッヒとの対話の中で、彼はフランスの核武装についての議論に関連して政治に対する自分の無力を表明し、「政治の場合も、常に全力を注ぐものだけが報いられる、二兎を追ってはだめだ。だから僕はもう一度はっきりと学問の世界に戻って行こうと思う(357ページ)」と述べた。それに対してフリードリッヒは次のように言った。

「君のやろうとしていることは間違っている。政治は、専門家やくろうとだけの職業ではなく、われわれが1933年のような破局を回避するためには、すべての人にとっての義務でもある。君が逃避することは許されない。とくに事が原子物理学の成果に関する問題である場合にはね。」(357ページ)

厳しい言葉ではあるが、学者が自分の学問領域の社会的影響について知り、その影響について倫理的判断をもって行動し責任を取ろうと努めることは、学者の義務であろうと思う。学問は社会と切り離されて存在するわけではない。

ハイゼンベルクの人生を語る場合、第2次世界大戦と原爆製造の話を避けてとおることはできない。彼はナチスに反対し、ユダヤ人への迫害を非難したので、秘密警察(ゲシュタポ)の尋問を受けたことがある。地下室に連れて行かれ、ずいぶん怖い思いをしたようだ。

高明な科学者がナチスに同調し、不正な手段を使ってユダヤ人アインシュタインの相対性理論を排斥しようとしたことについて、彼は次のように断言している。

不正な手段を使うことは、その張本人が自分の命題(テーゼ)の説得力を自分自身でもはや信じていない、ということの証拠にちがいないのだ。(73ページ)

1993年、当時31歳だったハイゼンベルクはライプチッヒで教授職を務めていたが、優秀な学生や研究者が次々とドイツを離れ、大学内への干渉が一層ひどくなることに危機感を持ち、「教授職を示威的に辞任することによって、大声ではっきりと〝これ以上には進ませない〟という意志を表現しようと(242ページ)」計画を立て、その相談にマックス・プランクのもとを訪ねた。

だが、プランクは憔悴しており、きわめて悲観的だった。彼は「あなたが少壮の人として、まだ楽観的であり、そのような手段でもって破滅を阻止できると信じておられることを、私はうれしく思います(242ページ)」と言いつつも、何の助言もできないだろうし、ドイツの大学の破局を阻止できるという希望は持てないと語った。プランクはヒトラーと直接話しており、ヒトラーが決して自分の考えを変えないことを感じ取っていたのだ。

プランクはドイツから脱出することは、移住先での就職口をひとつ奪うことになるとしたうえで、さらに次のように述べている。

あなたは外国で多分静かに仕事ができるかも知れませんし、危険の埒外にとどまれるでしょう。そして破局が終わった後、もしあなたが望むなら、ドイツへ帰国することもできるでしょう — あなたがドイツの破壊者たちといかなる妥協もしなかったということで、良心の呵責なしにね。しかし、それまでにはおそらく長い年月が経過し、あなたはちがった人になり、そしてドイツにいた人々も変わっているでしょう。そのときに、どこまであなたが変わってしまった世界で、よき指導者になり得るかは、たいへんに疑わしいのです。(243ページ)

このプランクの言葉は、読んでいて胸が痛くなる。進むも地獄、退くも地獄の心境だったに違いない。プランクはとどまることを選んだのだが、その心中には次のような絶望的な思いがあった。

人はもはや正しく行動することはできません。われわれがどんな決定を下そうとも、何らかの種類の不正に参与することになります。ですから結局のところ、誰も自分に頼るしかありません。(245ページ)

ハイゼンベルクも、悩みに悩んだあげく、ドイツにとどまることを選んだ。私がもし戦前の日本に生まれていたならどうしただろう。反政府の態度を表明して殺されれば、筋を通したことになるとはいえ、何かを成し遂げたことにはならない。何かを成し遂げたいと思えば命を永らえなければならないが、国内で戦って生き延びることは難しいだろうし、戦わないとするなら政府と妥協せざるを得ない。では外国に避難したらどうかと言えば、それはそれで国内の仲間を見捨てたことになるし、戦いを避けたことにもなる。戦後に帰国しても、仲間に会わせる顔がないかもしれない。

原子のように観測できないものは「ある」と言えるのかという問題は、この本で繰り返し取り上げられている。アインシュタインは観測できない量について、「物理学の理論では観測可能な量だけしかとりあげ得ないということを、本気で信じてはいけません(103ページ)」と述べたが、これはハイゼンベルクの「原子の中の電子の軌道は観測できません(103ページ)」という説明への反論として述べられたものだ。古典物理学の世界で予想されるような電子の軌道は計算することができず、電子の原子核周囲における分布確率しか計算できないということが、アインシュタインには納得できなかった。彼にとって電子の軌道は、観測できるか否かにかかわらず「存在すべきもの」だった。彼の次の言葉は印象的だ。

原理的な観点からは、観測可能な量だけをもとにしてある理論を作ろうというのは、完全に間違っています。なぜなら実際は正にその逆だからです。理論があってはじめて、何を人が観測できるかということが決まります。(104ページ)

それまでの物理学をひっくり返す相対性理論を構築したアインシュタインらしい発言だが、その彼が量子論に反発したということは非常に興味深い。

このような議論は、概念や量を表現するために使われる「言葉」についてもおこなわれている。ニールス・ボーアが直感と推測で理論を打ち立てた(62ページ)ということはすでに紹介したが、彼は概念を表現する言葉が持つ問題点について、「一つの言葉が何を意味するのかということを、われわれは決して正確には知らない(216ページ)」と断った上で、次のように述べている。

われわれが、これまで完全に決まっていて疑問の余地のないものとみなしてきた概念の適用範囲が、いかに制限されたものであり得るかということについて、まさに原子物理学において、改めて自然からいやというほど、そのことを学ばせられた〝位置〟や〝速度〟のような概念のことを考えてみるだけで十分だ。(217ページ)

しかし私たちはその「制限のある」言葉により理論を語らねばならない。ハイゼンベルクが、言語によって文法が違うように、論理も言語によって異なる可能性があるのではないかと訊くと、ボーアは次のように答えた。

「[言葉や考えが違っても]ある種の基本形態が[中略]根本にあって、それは人間によって作られたものではなく、われわれとは完全に独立した真理に属しているのだ。このように、この形態[引用者注:「ある種の基本形態」のこと]は言葉を発展させる淘汰の過程において決定的な役割を果たすが、しかもそれは、この過程によってはじめて創造されたものではない。」(223ページ)

この発言で、ボーアは人間が使う言葉や概念を超えた真理が存在すると考えていたことがわかる。

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