阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2019年05月

半場道子『慢性痛のサイエンス — 脳からみた痛みの機序と治療戦略』(医学書院)を読了した。半場は慢性痛の脳内機構と難治性疼痛を専門とする研究者である。医学の参考書のつもりで読み始めたが、非常にメッセージ性に富んだ本だった。もっとも強いメッセージは「慢性疼痛は脳の病気である。予防にも治療にも期待や希望が大切だ」というものだ。

近年、機能的核磁気共鳴画像(fMRI)検査の開発により、脳科学が大きく進歩した。従来不可能だった脳の各部位の働きを直接観察することが可能になったからだ。そのため、従来の説の訂正や、新しい発見が相次いでいる。慢性痛についても、その詳細がかなり明らかになっている。

私が慢性痛に関心を持ったのは、HPVワクチンの「副作用」の医学生理学的実態についてより詳しく知りたいと思ったからだ。この本を読んだことで、いろいろなヒントが得られた。

まず、脳が非常に可塑性に富む組織だということが意外だった。脳には神経幹細胞が存在する部位が複数あり、そこから新たな神経細胞が分化して脳に供給されている。簡単にいうと、分化が抑制されると脳の一部が萎縮し、分化が促進されると元に戻る。慢性痛があると、分化が抑制されるので、脳の構造が変わってしまい、元に戻りにくくなってしまう。つまり慢性痛が治らなくなってしまう。

慢性痛が脳の変化であるために、「鎮痛剤」が効かないということもよくわかった。痛みは体に感じるのだが、それは脳内にある身体のイメージ(投影図)によるものであり、実際の痛みは脳内の回路が起こしている。足に怪我をすれば、その信号が脊髄を伝わり脳に達することで足の痛みとして感じる。慢性痛の場合は、脳だけで足が痛いと感じているのだ。だから、痛いと感じるところに薬を付けても効くわけがない。また、モルヒネなどの麻薬は脊髄から脳に伝わる信号を抑制して鎮痛するので、脳だけの痛みである慢性痛には効果がない。

慢性痛と情動の結びつきも意外だった。私の中では、痛みと情動は脳の別々の機能として理解されていた。常日頃から人を全体的に、統合されたシステムとして理解しようと努めているのだが、機能ごとに分解して理解しようとする考え方がまだ抜けていないようだ。

人は痛みがあると元気がなくなり、集中力も低下する。これは当たり前のこととして知っていたが、痛みに気をとられるためだと漠然と思っていた。逆に痛みがあっても意志を強く持てば元気に振る舞えるし、集中もできるだろうと思っていた。急性の疼痛の場合はそうかもしれない。だが、慢性痛と情動や意思決定の結びつきは脳内回路の結びつきであり、切り離すことは困難なのだ。

「快」と「痛み」とは、まったく対極の情動に思える。しかし、快情動を感じるときの神経回路と、痛み刺激を受けたときの脳内回路網は、ぴったり重なるのである。慢性疼痛患者の多くは全身の痛覚過敏に悩まされるだけでなく、生きる意欲を失い、快感喪失(anhedonia)に陥っている。(38ページ)

だが逆に、マインドフルネスや認知行動療法(CBT)によって情動をコントロールすることで慢性痛を軽快させていくことが可能になる。マインドフルネスでは自己の呼吸などに意識集中させることによって、脳機能(外界を監視し行動を企画・遂行・評価する部分)の活動を高めているという(34ページ)。また、「慢性痛が原因で何年間も寝たきりになり、廃人同様であった人が、CBT治療を受けて負情動の牢獄から解放され、痛みのない日常に復帰している(106ページから107ページ)」という。

耳鳴りやめまいなど、治療法のない病気の患者で、外来診療の際に対処法を説明すると「薬はないんですか」と訊かれることがある。最初に薬では治らないことを説明しているはずなのだが、いろいろな説明を聞いているうちに忘れてしまい、最後に薬が出ていないことに気づいて質問するのだろう。

薬がないというと非常にがっかりする人もいれば、「何かないのか」と食い下がる人もいる。そのような人の頭の中には「病気」と「薬」が対になって存在しているのだろう。

人が、病気に対する薬があると考える背景には複数の原因があると思う。まず一つ目は医師の態度だ。疾患が見つかると、原因治療をしようと考え、原因がわからなくても対症療法をしようと思う。インフルエンザが見つかれば抗ウィルス剤を処方し、見つからなければ、熱があれば解熱剤、ノドが赤ければ消炎剤、咳が出れば鎮咳剤や去痰剤を処方しようとする。これは、医学部での教育の結果でもあり、人の役に立ちたいという医師の純粋な思いからのこともあるだろう。

ネガティブなコメントを付ければ、抗ウィルス剤の副作用や、熱が下がってウィルスの排出が続いているのに会社や学校に出てしまう危険性は無視されることが多いし、解熱剤で熱を下げることで風邪の治癒が長引くことなど、「治療による不利益」は考慮されないことが多い。

二つ目として製薬会社の宣伝がある。本当の意味で風邪に効く薬はないのに、まるで自社製品が風邪に必須の特効薬であるかのように宣伝する。耳鳴りの薬も同様だ。製薬会社としては治験もしているし厚生労働省の認可も受けていると主張するだろうが、それは厚生労働省の認可がいい加減であることを示しているにすぎない。

医療側の原因は他にもあるかもしれないが、最近考えているのが患者側の認識についてだ。人間は、何か現象を認識すると、それが良いことでも悪いことでも無意識に原因を探る。これは人間が長年の原始的生活の中で磨いてきた本能だ。原因を推測することで、将来的な危険を未然に防いだり、将来の利益を大きくしたりする。生活の知恵はそこから得られたものだし、農業、水産業、林業を支えるノウハウもそうして得られたものだ。病気に関してもかならず原因を探る。「手を洗わなかったからだ」「寝不足だったからだ」「食べたものが悪かった」などさまざまな理由を見いだす。その推測は正しいこともあれば間違っている場合もある。

原因に対して対処法があると考えるのも、もしかすると人間の本能ではないかと思うようになった。加齢のような対処法のないものに対しても、対抗する方法があると信じている人が多いようなのだ。「若返り」のようなことを真面目に信じている。加齢に関してすらそうなのだから、一般の病気に対して対処法を期待するのは当然だろう。

さらに患者側の要因としては、運動など努力をするのでなく、薬を何回か飲むだけで治したいという希望がある。患者の薬に対する期待が単なる思い込みではなく本能に根ざしたものであるなら、「薬はありません」と説明するだけでは足りないことになる。患者に考え方を変えてもらう働きかけが必要になる。

日経xTECH(クロステック)で2019年4月24日に配信された「何がセーフか分からない ウイルス罪で罰金刑を受けた技術者の嘆き」(https://tech.nikkeibp.co.jp/atcl/nxt/column/18/00722/042200002/)について書きたい。この記事は「どこからが犯罪?揺れるウイルスの定義」というシリーズの1つである。

セキュリティーエンジニアのIPUSIRONは『ハッカーの教室』などセキュリティ関係の著書もある技術者だが、「あるサンプルコードを載せた投稿記事を2016年3月にWizard Bible[彼が管理人を務めていた情報セキュリティーとハッキングの技術情報サイト]に掲載した行為が不正指令電磁的記録提供、いわゆるウイルス罪に当たるとされ」、2017年11月に警察による家宅捜索を受けた。「記事を消すべきだといった事前の警告は一切なかった」という。彼は「警察も検察も、『どうすればセーフになるのか』を言ってくれません。ただアウト(有罪)の領域だけが広がっている。エンジニアは戦々恐々とせざるを得ません」と述べている。

コード自体は単純な遠隔操作プログラムにすぎない。ただ、記事を投稿した高校生(当時)が2017年6月にフィッシングサイト開設の疑いで逮捕され(後に処分保留)、同年7月には不正指令電磁的記録作成の罪で再逮捕された。報道によると、容疑は「他人のパソコンを遠隔操作するコンピューターウイルスなど計16個を作成した疑い」(河北新報2017年7月12日)。押収されたソースコードの一部にソケット通信プログラム[引用者注:IPUSIRONがWizard Bibleに掲載したサンプルコード]が含まれていた可能性がある。

詳細が不明なのだが、この記事から判断すると、
  • 高校生がトロイの木馬の原理を説明するコードを投稿
  • その高校生が実際にトロイの木馬を作成
  • その高校生がフィッシングサイト開設の疑いで逮捕される
  • 容疑では処分保留になるが捜査の過程でトロイの木馬が発見される
  • 実物トロイの木馬に投稿されたコードが使われていることが判明
  • 投稿を掲載したことでIPUSIRONが家宅捜索を受ける
ということになる。自分が作成するコードに自分が投稿した記事のコードが入っているのは当然のことだろう。だが、そのコードが悪用されたからといって掲載者のところを家宅捜索するというのは行き過ぎだろう。

IPUSIRON氏がWizard Bibleに記事を掲載したのは高校生が逮捕される以前の話で、こうした投稿者の行動や事情を知る由もなく、悪用する目的も意図もなかったという。投稿記事には「コードの悪用は厳禁」と書かれているうえ、サンプルコード自体にファイアウオールを突破する機能はなく、単体での悪用は難しい。
記事タイトルには「トロイの木馬型のマルウェアについて」という文言があり、「侵入」などウイルスとしての利用を連想させる言葉もあったが、IPUSIRON氏は深刻な問題とは思わず、削除しなかった。「問題となった記事のソースプログラムは、マルウエアの卵になる前のネットワークプログラムという認識だった」(IPUSIRON氏)。

彼の「ソケット通信プログラム自体は善悪のない中立的なプログラムだ」という主張を警察も検察も聞き入れなかったという。

警察は「簡単にコンパイルできないような工夫はなぜなかったのか」と言い、「中立と言ったが、悪いこともできるだろう。ファイル削除のコマンドを入力すればどうなるのか」と迫った。

これではコンピュータ言語のRubyでウィルスを作ったら、Rubyの作者まで取り調べを受けかねない。素人が大きな権力を持つことの恐怖を感じる。戦争中に、「蟻の社会」という本を出版した研究者が、社会主義者ではないかと疑われて特攻に逮捕されたという話を思い出した。IPUSIRONはWizard Bibleを閉鎖した。不見識な権力行使が社会を脆弱化させる。

ニューロマーケティングという言葉がある。「ニューロ」は「神経」を意味する。比較的新しい言葉で、ウェブ雑誌「MarkeZine」の「世界のトレンドを読む」(2019年4月25日配信)では次のように説明されている(https://markezine.jp/article/detail/30888)。(以下、本文中の引用もすべてこの記事から。ただし、この記事は有料記事なので、引用は無料公開部分からのみ)

「ニューロマーケティング」という言葉が登場したのは2002年頃。オランダ・エラスムス大学のエール・スミス教授が作りだした造語といわれている。マーケティングやニューロ・エコノミクスのサブカテゴリーとして研究が進められている比較的新しい分野だ。
脳神経科学で用いられる機器や手法を活用し、消費者の脳が広告や商品などにどのような反応を起こしているのかを分析する。

消費者が商品を選ぶことを含め、「人間の行動の95%を無意識が決めているといわれている」。したがって、商品選好の予測は難しく、「食料雑貨店での新商品の失敗率は70~80%に上る」という。そのために脳科学の分野の知識をマーケティングに生かそうとする動きが現れた。この記事によれば、それを後押ししているのは脳波測定装置が容易に入手できるようになったからだという。

脳機能の研究にしばしば使われるのが、機能的核磁気共鳴画像(fMRI)と脳波(EEG)だ。MRIは、検査したい部位に強い磁場をかけ、分子の状態を検出する方法で、CTと同じように生体の断面の像が得られるが、特定の分子(主に水)の分布や状態がわかる像なので、形だけでなく、生体の活動状況などを知ることができる。fMRIは被験者に何か作業をさせながらMRI検査をおこなうもので、脳を撮影すればその作業中に活動している部分がどこかわかる。しかし装置が巨大で高価であり、撮像と画像処理に時間がかかり、リアルタイムの観察はできない。

それに対し、EEG測定機器は「fMRIに比べコンパクトかつ安価。また、広告を見た瞬間の脳内反応をリアルタイムで測定できる」。そのためニューロマーケティング分野では特に重宝されているという。

無意識に訴えることは以前からおこなわれてきた。新興宗教が勧誘の対象を食事に誘うのも、一緒に食事をした人には好感を覚えるというヒトの本能に働きかけるためだ。高価な壺を買わせたり、財産をすべて寄付させたりするのも、ヒトの「犠牲を払ってしたことに対しては正しかったと評価する(思い込もうとする)」という性質を利用するものだ。だが、こういった手法は、自分の行動を反省する機会があれば修正できる可能性がある。また、事前に手口を知っていれば警戒心を働かせて避けることもできる。ところが脳科学を応用して無意識の深いところに直接働きかけられてしまうと、その「操縦」に対抗することはむずかしそうだ。

このように深い無意識に直接訴えることは正しいことではないとされるのが一般的だと思う。無意識の操作ということでは、サブリミナル効果が話題になったことがある。これは、動画などの中に、人間が気づかなほど短時間のメッセージ画像を挿入して、無意識の行動を誘おうとする方法だ。サブリミナル効果は存在しないというのが結論のようだが、日本では日本放送協会(NHK)が1995年に、日本民間放送連盟が1999年に、それぞれの番組放送基準でサブリミナル的表現方法を禁止することを明文化している(Wikipedia「サブリミナル効果」)。NHKの「国内番組基準」(https://www.nhk.or.jp/pr/keiei/kijun/index.htm)は、第11項の6で「通常知覚できない技法で、潜在意識に働きかける表現はしない」としているだけなので、ニューロマーケティングも抵触する可能性がある。

ここまでいろいろ書いたが、要はコンピュータ関連の仕事をしているものとして、ゲーム中毒や無意識操作などに加担している可能性があるのが嫌なのだ。 

さらに山口は語彙のずれ(使っている言葉の違いと言ってもいいかもしれない)についても懸念を述べている。

最近、異なる世代間での共通言語が危機的に少なくなってきていると感じます。年配の世代が若い世代の流行語や略語、「ビミョー」「フツー」「ヤバイ」とカタカナで表現される独特の言葉の使い方についていけないのもその1つです。
一方、年配の世代が使う表現を理解できない若者も増えています。

彼女が挙げるのはある研修医の体験だ。年配の患者の採血をしようとして何度も失敗したところ、その患者が「なぁ、兜を脱ぐか?」と言ったのだそうだ。

しかし研修医はその意味が理解できず、「どうしよう、何か僕に言っている…」と戸惑い、一生懸命「かぶと、かぶと…」と考えているうちに、兜をかぶった侍が刀を抜いて闘う姿がイメージされて、その勇ましい姿から「そうか、僕は励まされてるんだ!」と考えたのです。そして再び、2回採血を強行したことを私に打ち明けました。

「兜を脱ぐ」がわからないのであれば「シャッポを脱ぐ」はなおさらわからないだろうと思ってインターネットを検索したところ、「シャッポ」という言葉はポップスの題名やマンガに現れることがあるようで、いくらか知られていた。

インターネットでは「兜を脱ぐ」と「シャッポを脱ぐ」を同じような意味だと説明しているサイトが多かったが、私はニュアンスの違いを感じる。

私には、「兜を脱ぐ」は降参する、諦めるといったニュアンスが感じられる。「戦いの鉾を収める」という意味があるからだ。それに対して「シャッポを脱ぐ」は自分より相手が上手であることを認める、相手が優れていることを認めるというニュアンスが私には感じられる。これは目上の人の前では帽子を取って挨拶することから感じられるニュアンスだろう。「脱帽する」もそのようなニュアンスで使われることが普通だ。

だが、そのように説明しているページはなく、インターネットで検索したすべてのページがどちらも同じ意味だとしていた。「兜を脱ぐ」の兜が古臭いので、しゃれてシャッポと言い換えただけだろうと指摘するページもある。広辞苑の記載も、そのような事情をうかがわせる。シャッポはフランス語のchapeauだと言われるが、昔はかなり広く使われていた言葉だと思う。「兜を脱ぐ」がよく知られた言い回しで「シャッポ」がちょっと気取った日常語であれば、「シャッポを脱ぐ」はちょっと面白い言い換えとしてすぐ受け入れられたのだろう。私が感じるニュアンスの違いは個人的なものということになる。

話を戻せば、そのような成句はどんどん消えてゆく運命にあるようだ。日常使われないので、文中にあるのを再発見されることもあるのだろうが、読み方を間違えたりする。以前、「しくも」を「きしくも」と言っていた若者がいた。きっと目から覚えたのだろう。

「顔が広い」「足を洗う」といった、普段使われる単語から構成される成句は残るだろうが、「あつものに懲りてなますを吹く」「隠忍自重」といった、普段使わない単語から構成される成句は消えていくのだろうか。「感謝感激雨あられ」「その手は桑名の焼き蛤」「着た切り雀」といった言葉遊びも記録の中だけの存在になるのだろう。「初老の紳士」を「ういろうのしんし」と読んだという話が團伊玖磨の本にあったのを覚えている。「初孫ういまご」「初陣ういじん」からの連想なのだが、「間違い方にも歳が出る」というようなコメントだった。現在では「初孫」は「はつまご」と読むのが標準になってしまっている。これには山形の日本酒の銘柄が影響しているらしい。なお「初陣」のほうは「ういじん」と読む日本酒が島根県にある。

↑このページのトップヘ