[この記事を間違えて昨日アップしました。昨日12:50頃にそのことに気づき、昨日の記事を差し替えるとともに、本日にアップし直しています]
最近、看護学校で倫理の授業を担当している。その際に考えたことについて述べたい。
誰の言葉だか忘れたが、教育の目標は自分で自分を教育できるようになることだと聞いたことがある。つまり新たな課題を自分で見つけ、その答えを自ら求めていくことができるようになることが目標だというのだ。具体的には課題に気がつく感性と、答えを見つけようとする意欲、そして答えを見つける方法を考え出す力を育むということだろう。
教育の効果を知識・技能・態度の3領域で考えると、知識の増加、技能の習得、態度の形成(変化)ということになる。授業でおこなう場合、効果の測定が必要になるが、知識、技能はテストで測定しやすいのに対し、態度領域は行動観察などの方法で評価するのがふさわしく、ペーパーテストに向かない。
倫理を授業で教える場合、その授業は知識領域の授業ではなく、態度・習慣領域の授業であるべきだと考えている。授業の主な目的は倫理的思考に気づくことである。特に医療系の学校で教える場合、実践の場で役立てようというのが授業の目的であるから、理論だけを知識として学んでもあまり意味がない。また、短時間の授業で倫理的思考を一気に身につけることも難しい。となれば、授業が目指すのは「倫理的に考える」ということを知ること、そのような考え方に気づくこと、それをさらに深めようと考える動機付けである。
倫理の授業が面白くないのは、知識偏重の授業であるからだろう。私の通った中学では、倫理の授業はシュヴェーグラー『西洋哲学史』(岩波文庫)の通読と解説であった。特別につまらない授業だった。中学3年生にプラトンやソクラテスの思想を解説してわかるのかという問題以前に、その哲学者が現実の世界に対してどのような問題意識を持ち、どのような紆余曲折を経て自分の理論にたどり着いたのかという背景説明なしに、ただ理論の概要のみを説明しても、学生の興味を引きつけることができないのは当然ではなかったのかと思う。
ではなぜ授業が知識偏重になるのだろう。倫理に深く関わろうとする人にとって基礎知識が必要なものであることは間違いなく、功利主義、正義論など倫理哲学について学ぶことには大きな意味がある。だがそれが学生にとっては「当面不要な知識」であるということに対する配慮が少ないのかもしれない(もちろん当面不必要な知識でも「教養として」身につけるべきだという考えを否定するものではない)。また、知識に関する項目はテストしやすいという「功利的」な面もあるのかもしれない。さらに、知識を伝える授業は簡単である。その一方で態度・習慣領域の授業は、教師の働きかけとさまざまな工夫を必要とする。教師の力量が試される領域でもある。倫理の授業時間はそれほど多くない。その多くない時間に多くのリソースを注ぎ込むことができないのかもしれない。
私は倫理的思考に気づくようになることを目指して授業をした。だがそれは私の理論と意欲の話であって、授業が面白かったかどうかとは別の話であり、さらに授業が役に立つかどうかはこれからの話である。