阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2019年04月

[この記事を間違えて昨日アップしました。昨日12:50頃にそのことに気づき、昨日の記事を差し替えるとともに、本日にアップし直しています]

最近、看護学校で倫理の授業を担当している。その際に考えたことについて述べたい。

誰の言葉だか忘れたが、教育の目標は自分で自分を教育できるようになることだと聞いたことがある。つまり新たな課題を自分で見つけ、その答えを自ら求めていくことができるようになることが目標だというのだ。具体的には課題に気がつく感性と、答えを見つけようとする意欲、そして答えを見つける方法を考え出す力を育むということだろう。

教育の効果を知識・技能・態度の3領域で考えると、知識の増加、技能の習得、態度の形成(変化)ということになる。授業でおこなう場合、効果の測定が必要になるが、知識、技能はテストで測定しやすいのに対し、態度領域は行動観察などの方法で評価するのがふさわしく、ペーパーテストに向かない。

倫理を授業で教える場合、その授業は知識領域の授業ではなく、態度・習慣領域の授業であるべきだと考えている。授業の主な目的は倫理的思考に気づくことである。特に医療系の学校で教える場合、実践の場で役立てようというのが授業の目的であるから、理論だけを知識として学んでもあまり意味がない。また、短時間の授業で倫理的思考を一気に身につけることも難しい。となれば、授業が目指すのは「倫理的に考える」ということを知ること、そのような考え方に気づくこと、それをさらに深めようと考える動機付けである。

倫理の授業が面白くないのは、知識偏重の授業であるからだろう。私の通った中学では、倫理の授業はシュヴェーグラー『西洋哲学史』(岩波文庫)の通読と解説であった。特別につまらない授業だった。中学3年生にプラトンやソクラテスの思想を解説してわかるのかという問題以前に、その哲学者が現実の世界に対してどのような問題意識を持ち、どのような紆余曲折を経て自分の理論にたどり着いたのかという背景説明なしに、ただ理論の概要のみを説明しても、学生の興味を引きつけることができないのは当然ではなかったのかと思う。

ではなぜ授業が知識偏重になるのだろう。倫理に深く関わろうとする人にとって基礎知識が必要なものであることは間違いなく、功利主義、正義論など倫理哲学について学ぶことには大きな意味がある。だがそれが学生にとっては「当面不要な知識」であるということに対する配慮が少ないのかもしれない(もちろん当面不必要な知識でも「教養として」身につけるべきだという考えを否定するものではない)。また、知識に関する項目はテストしやすいという「功利的」な面もあるのかもしれない。さらに、知識を伝える授業は簡単である。その一方で態度・習慣領域の授業は、教師の働きかけとさまざまな工夫を必要とする。教師の力量が試される領域でもある。倫理の授業時間はそれほど多くない。その多くない時間に多くのリソースを注ぎ込むことができないのかもしれない。

私は倫理的思考に気づくようになることを目指して授業をした。だがそれは私の理論と意欲の話であって、授業が面白かったかどうかとは別の話であり、さらに授業が役に立つかどうかはこれからの話である。

第4章「医師の分布は均一なのか」では、いよいよ医師の偏在の問題が扱われる。

医師の分布を自然に任せても、需給などの因子が働いて分布が均一化していくという主張は間違っていると指摘している。

医師数が増加してくれば、医師はより均等な方向に拡散する(spreading out)現象が起き、医師の地理的偏在は緩和の方向に向かうとする「空間競合仮説」[文献省略]は、小林、鳥谷部、谷原らの研究により日本では成立しない。むしろ、医師は増えれば増えるほど都市部に集積していく傾向にある。(153ページから154ページ)

私はこの研究のことを知らなかったが、都市部に集中する理由はわかる気がする。医師になりたい学生の多くは、最初は家庭医や総合診療医を目指していても、医学を学ぶうちに最先端医療に惹かれ、多くは手術、内視鏡、カテーテル治療、免疫、癌などの専門領域に進もうとすることになる。今年運用が開始された新専門医制度の影響もあると思うが、一般診療に従事しようと思う研修医は少ない。そうなると、若い医師はどうしても症例が豊富で教育体制が整っている都市部に集中することになる。高度医療を実践しようと思えば、医師も医療スタッフも設備も、一定数以上が必要となり、あるレベルに到達するまでは多ければ多いほど良い。専門医は都市部に集積することになる。

だがその一方で、地方勤務をしてもいいという医師も実は多い。厚生労働省が2017年に公表した「医師の勤務実態及び働き方の意向等に関する調査」の結果が説明されている。

[全国の医師を無作為に抽出して]1万5677名の医師から回答が得られた。その結果、実際には医師の44%が、今後地方で勤務する意思があると表明した。20代の勤務医では、その60%が地方で勤務する意思があると回答した。[中略]その勤務期間を問うと、20代は2-4年間を希望する割合が多く、30代以上は10年以上を希望する割合が高くなる。(167ページ)

ただし、この調査でいう「地方」とは「東京都23区および政令指定都市、県庁所在地等の都市部以外(168ページ)」を指している。つまり、中都市も含まれているのだ。

医師の44%が地方勤務を受け入れるという調査結果であっても、それがただちに医療過疎で困っている小都市や郡部の勤務を受け入れる意思があると理解するには多少問題がある。(168ページ)

この問題は、医師数の問題ではなくキャリアパスの問題と考えたほうがいいだろう。どこまで専門領域に特化した医師になりたいと考えているか、子どもの教育をどうするか、夫婦間の指向性の違いをどのように調整するかという問題なのだ。

さらに桐野は「医師が適切に充足しているということは、実は医師に余裕があることを必要としている(214ページ「あとがき」)」と述べている。どれだけの余裕を持たせるのか、余裕がない場合はどのように対処するのかなど、制度を改変するためには決めなければならないことが非常に多い。慎重な議論が必要だ。

病床数とひとり当たりの入院医療費に相関がある(因果関係はわからない)ことを森田洋之はよく取り上げるが、この本では人口10万人あたりの医師数とひとり当たりの医療費との相関が取り上げられている。寄与率は0.5042(相関係数を逆算すると71.0%)で、かなり大きい。医師が最も少ない地域と比較すると、最も多い地域では1.24倍から1.33倍の医療費がかかっている。

しかしながら、最も医師数の少ない都道府県では、医師不足のために、必要な医療を受けられない住民が存在し、そのために医療費が低くなっている可能性が高い。必要な医療なのか、過剰な医療なのかは実際には判断が困難である。(136ページ)

では、この相関に因果関係はあるのだろうか。つまり、医師が増えると医療費が増えるのだろうか。桐野は二木立の論文(「医師数と医療費の関係を歴史的・実証的に考える」『月刊保険診療』Vol. 64 No. 4, pp48-55, 2009)を引用して「仮にそれがあったとしてもそれほど大幅ではなさそうだ」としている。

[二木]は、総医療費の中の医師人件費を経時的に調べ、その総額は総医療費に対してほぼ20%を占め、医師の総数には依存しない傾向があることを示している。総医療費が厳しく制限されている現在の日本の状況では、医師が増えたからといって、その分を医師人件費として増額することは困難である。結局医師一人あたりの所得は今後徐々に低下していくだろう。(137ページ)

このことについては、この本の別の場所にも反論が掲載されている。1986年の「将来の医師需給に関する検討委員会最終意見」(概要:https://www.mhlw.go.jp/shingi/2005/02/dl/s0225-4e1.pdf)に対する反論だ。この報告書では「医師数の増加に伴う医療費の増嵩についての影響は、病院勤務医1人当たり年8,000万円、開業医1人当たり年6,000万円になるという試算もある」としている。

しかし、医師一人あたり増加する額は国民医療費総額を医師数で割り算したに等しい数値であり、適切ではない。医師一人あたりの「平均医療費」と、医師が一人追加的に増える場合の医療費増加(「限界医療費」)とは異なる。一人あたりの平均値は医療費の増加に対する寄与を過大評価することになる。このことは経済学的には常識的な議論であり、注意を要する。(100ページ)

この最終意見で引用されている試算は数多くの仮定を入れた不確実なものであると思う。開業医の年収は勤務医の2倍以上という「計算」もある(https://gentosha-go.com/articles/-/19969)。上記試算では勤務医のほうが医療費に与える影響が大きいと仮定しているのだろうが、納得がいかない。

それはさておき、桐野のこの文はわかりにくい。要は、医師が1人増えたときに増える医療費の額は、医師1人あたりの平均医療費より小さいのは、学問的常識であり、常識はずれの主張には隠された意図があるということだ。

戦後の医療現場を支えたのは帰還した軍医たちだが、制度の基盤を作ったのは軍だった。

[軍は]医師を大幅に増やして軍医として採用しただけではなく、国民の健康維持に関しても、さまざまな施策を実行している。これは、国民のためというよりは、徴兵検査の結果が悪化の傾向にあり、国民の体力の低下が危惧されたことが大きな理由であった。[中略]1938年の厚生省設置、国民健康保険法公布、国民医療法制定など、直接的に意図したものではないにしても、戦後の福祉国家の根幹をなす政策が次々に進められた。日本において、戦後の高度成長期に取り組まれた福祉政策のルーツは、実に太平洋戦争開戦当時の日本にあって、軍部によって推進されたのである。(65ページ)

軍の士官を養成する陸軍士官学校と海軍兵学校は、陸士海兵と並び称せられたエリート校だった。士官の中に行政の面でも優秀な人がいたのは間違いない。しかし、軍の施策が結局役立ったからといって、帝国陸海軍の愚かな行為が帳消しにされるわけではない。このことは特に強調しておきたい。

なお、軍が設置した医専の閉鎖には時間がかかった。たとえば東京帝国大学に設置された医専の場合、戦後の卒業生のほうが多い。

これは戦前に入学していた学生を戦後まで教育したことと、入学を停止するまでに数年を要し、それまでに入学した学生が卒業するまでの間は教育をおこなったからである。医師に限ることではないが、教育機関には学生もいると同時に多くの教職員が雇用されている。実際に学生数を大幅に縮減したり、あるいは教育機関そのものを廃止したりすることは容易ではない。(70ページ)

この困難性については複数の箇所で言及している。なお、医師養成過程に関する議論でかならず話題になる初期臨床研修問題(初期臨床研修制度の開始により、一時的に大学が人手不足になり、医局による地方病院からの「医師の引きあげ」が起こった問題)を、桐野は次のように評価している。

潜在的に進んでいた医師不足問題が、初期臨床研修制度が導入されたことによって顕在化した。[中略]ここまで問題が大きくなったのは、当時の医療提供体制全体に相当な制度的ひずみが進んでいたことによる。大学から市中の病院に研修医が流れたといっても、研修医全体8000人弱の20%、1600人である。当時の大学病院の医師は約4万3000人ほどであったから、その4%弱にあたる。大学病院の医師の4%に相当する卒後間もない医師がいなくなったために、医師の分布を大幅に組み替えるような医師の再配置が起きて、それが地域の病院での深刻な医師不足の原因となった。そうなるには、それだけ地域の医療が余裕のない脆弱な状態になっていたと考えるべきなのである。(87ページ)

たしかにそのとおりだが、脆弱だったのは大学病院も同じだと思う。雑用を全部研修医に押し付けて医局が運営されていた。研修医は医師であるのに、医療だけをしていることができず、資格がなくてもできるような雑用をしなければならなかったのだ。最近の大学の事情を知らないが、雑用は医局員に分散されているらしい。本来ならば米国のように、雑用を処理できる人びとを雇うべきなのだろうと思う。

医師が足りない、あるいは余っているという場合、どのくらい養成するのかが問題となる。養成数を管理する方式には、大きく分けて入口管理と出口管理とがある。入口管理とは養成組織(医師の場合は医学部)への入学数を管理する方式で、具体的には医学部の数と入学定員を管理する。出口管理とは、資格試験(医師の場合は医師国家試験)の合格者数を管理する方式だ。現在日本では医師養成数に関して入口管理が実施されている。

管理の失敗について、桐野は歯科医師、法曹資格を挙げて説明している。歯科医師が多くなりすぎ、歯科医院が「コンビニより多い(31ページ)」と言われ、「貧困歯科医」が生まれているのは有名だろう。

[歯科医師の]9.5%が年間所得200万円以下となっていて、歯科診療所の経営はきわめて厳しい状況に置かれている(138ページ)

また、司法制度改革で生まれた法科大学院が、司法試験合格者を出せなかったり、学生が集まらなかったりで次々と潰れているのもよく知られたことだと思う。桐野によれば、薬剤師の養成数管理にも問題があり、さらに柔道整復師は明らかに過剰になっているという。

養成数を増やすという「アクセル」を踏めば、慣性がつき、有資格者はどんどん増える。桐野はブレーキを踏むことは難しいという。たしかに、いったん増やした大学や学部を閉鎖させることは、並大抵のことではないだろう。また、ブレーキを踏んでもそれが利き始めるまでに長い時間がかかるともいう。さらに出口管理で合格者数を絞れば、ブレーキの利き始めのときには大学を卒業したものの資格が取れない人が多数出ることも予想される。

獣医師の養成に関しては、安倍首相が親友の加計に便宜を図り、国家戦略特区として愛媛県に加計学園の獣医学部新設を認めたところ、日本獣医学会が猛反発したことは記憶に新しい(https://seo.lin.gr.jp/nichiju/suf/topics/2017/20170623_01.pdf)。なおこの問題については、「四国の獣医師不足を解消するため」が謳い文句であったのに四国枠の合格者が1名しかいないと指摘されている(https://lite-ra.com/2019/02/post-4561.html)。

戦時中、医師数は急激に伸びたが、事情はやや複雑だ。

[医師職の]人気の理由には、医師になりたいという希望もさることながら、戦争での影響も大きい。もともと医者になる気がなくても、だんだん激しくなる戦争の様子を聞くにつけて、二等兵で徴兵されるくらいなら、いっそ軍医になれば楽なのではないかと考えたり、また医専に進学して一時的に時間をかせぎ、その間に受験勉強をして旧制高校に入り直せばよい、などと考えたりする人も少なからずいたらしい。男子は20歳になると徴兵検査が待っている。だが旧制高校を経て大学へ進学すれば徴兵猶予にもなると、甘い考えを抱くものもいたようだ。確かに開戦の初期には、大学生は徴兵猶予の対象となっていた。(63ページ)

戦線が拡大するにつれ、軍医の需要も急激に伸び、軍も養成に力を入れた。引用文に出てくる「医専」は軍が軍医の養成のために設置したものだ。ただし、軍医だからといって決して楽ではなかった。戦死も多く、「学徒出陣によって出征した中では、他の学部に比較して医学部が最も戦没者の比率が高い(65ページ)」という。

ここで注目すべきは、この時点で増産された医師が戦後の医療を支えたということだろう。「終戦の時点では日本国内に約1万人の医師が残るのみであった。そこに7万人の軍医が戦地から帰還したのだ(65ページ)」。

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